青木先生が当日公開したのは、2年生の物語「アレクサンダとぜんまいねずみ」であった。
「中心人物の変容をとらえることができる」、これが授業の目標であった。
事前に用意されていた指導案では、主な学習活動は、以下の通りであった。
1 学習課題を考える。
・中心人物はだれか。
・何型の物語か。
・クライマックスはどこか。
2 登場人物と中心人物を確かめる。
・なぜアレクサンダが中心人物だと言えるのか。
・アレクサンダの何が変わったのか。
3 中心人物はいつ変わったのかを読む。
4 中心人物はなぜ変わったのか。
当日は、「修正版」の指導案が配布された。主な学習活動が以下のように修正されていた。
1 作品から一番面白いと思った場面を選ぶ。
・アレクサンダがとかげに願い事を伝える場面
(願いを変えた場面)
・ウイリーが本当のねずみになった場面
・アレクサンダが人間に嫌われている場面
2 なぜその場面がえらばれるのか、わけを考える。
・物語の山場で、読んでいて一番ドキドキするから。
(→クライマックス場面)
・最後に本物のねずみになれて良かったと思ったから。
(→結末の場面)
・はじめの願い事は、人間にちやほやされたいと思っていたこと。
(→冒頭場面)
3 それぞれの場面がつながって、一つの物語作品になっていることを知る。
「修正版」を見て、私がすぐに思い出したのは、「単元を貫く言語活動」であった。そこでは、課題設定において「一番好きな~」「お気に入りの~」を選択することがよく使われる。それによって、主体的な学習が展開されるからだと言う。
授業後の協議会での青木先生の発言によれば、修正の意図は、初めから「学習用語」を使った学習から入るのではなく、子どもたちの素直な反応から「学習用語」を使った学習へと展開したかった、ということらしい。
授業は、子どもたちが自分の選んだ一番好きな場面を発表し、それを教師が他の場面との「つながり」を見つけさせていくという形で進行した。
子どもたちの発表からは、「好きな場面」を選ぶ活動では、特に「学習用語」を意識していないように思えた。また、場面の「つながり」を志向する意識も子ども自身はもっていないように見えた。それは、「好きな場面を選べ」という課題への「素直な反応」だろう。
そうして子どもが選んだ場面について、教師がつっこみ「学習用語」を引き出し、「つながり」をつけていった。子どもが「好きな場面」を選ぶという動機とは別の教師の意図によって授業が展開された、私にはそう見えた。
一人ひとりの子どもは、素直に自分の好きな場面を選んだ。しかし、教師が意図したのは、一人ひとりの好きという思いを受け止めることではなかったと思う。一人ひとりの好きという思いを重視することよりも、それぞれが違った場面を選ぶことを教師は期待していた。その上で、それぞれの「つながり」から「中心人物の変容」を導き出そうとしたのだと思う。
もし、そうであるならば、山場の中心人物の変容をおさえた上で、その変容にとって「大事な場面」を考えさせる展開でよかったのではないか、と思った。
作品における学習価値と、子どもにおける作品に対する価値(好き)ということとは、区別して考えた方がいい。
今回の青木先生の授業では、「作品を丸ごと読む」ことによって、作品の中にある「つながり」を子どもたちに見出させ、「中心人物の変容」をとらえさせることを意図していたと思う。
こうした意図こそ、「フレームリーディング」という方法によるものなのだと思う。
「学習用語」にせよ、「つながり」にせよ、それは作品に内在するものであり、作品が内包する論理に基づくものである。一方、「好き」というという感情は、読み手の側にあるものである。
作品と読み手とをどうつなぐか、これはとても重要な問題である。
例えば、私が見た「単元を貫く言語活動」の授業では、子どもが選んだ「一番好きな場面・お気に入り場面」の「様子を想像」する学習を行っていた。教師が目標とするのは、「場面の様子について想像を広げる力」であったはずなのだが、子どもの読み取りはとても浅いもので、「想像を広げた」とは言えなかった。そのひとつの要因は、その場面で書かれていることだけを読んでいたためである。まさに「つながり」が意識されていなかったのである。「好き」という場面に執着させることによって、作品の「つながり」は「切り刻まれてしまう」。
作品が持つ学ぶべき価値的な内容(例えば「つながり」)をとらえさせるために、学習の出発点に学び手の「好き」という感情を置くことには、必然性があるのだろうか。学びによって見えなかった「つながり」が見えてくるという経験を通して、作品がより「好き」になるということはあるだろうが。
「好き」という感情を学習の出発点におくことが算数や理科などではあるのだろうか。
そもそも教師から「好き」な場面を選べと言われて選んだ「好き」は、主体的な学習を促し続けるほどの本当の「好き」なのだろうか。
作品と読み手とをどうつなぐか。学習すべき内容と子どもの学習をどうつなぐか。
2015年8月9日日曜日
2015年8月8日土曜日
青木先生の授業を見る②
青木先生は、「フレームリーディング」という読みの授業方法を提案している。
「フレームリーディング」について、最も強調されている特徴は「文章を丸ごと読む」ことである。
2点目。国語の学年ごとの授業時数は、小学校では「997755」、中学校では「443」である。「中学3年生では、週3時間の国語の授業で現代文を読み、古文を読み、漢字や文法的言語事項をこなさなければならない。指導者は大変である。当然授業は、短時間で丸ごと読んで、筆者の主張は何だとか、作品の主題は何だという投げかけになる。小学校で場面ごと段落ごとに丁寧に読む授業しか受けてこなかった子ども達は、このギャップについていけない。」
ここで、青木先生が批判の対象としているのは、小学校における【場面ごと段落ごとに切り刻み丁寧に読む授業】しか受けさせていない「現状」である。
こうした批判対象は、近年の「単元を貫く言語活動」の提案において批判されている【無目的に場面ごと,段落ごとに平板に読み取らせる指導】と一致する。
そこで、私が疑問に思ったのは、はたしてこうした「現状」が広く存在しているのか、ということである。
自分の知見の及ぶところでは、教科書会社の作成した指導計画に基づいて自校の指導計画を作成する学校が多く、教科書会社の作成した指導書によって授業を行っている教師が
多い。教科書会社では、当然【無目的に場面ごと,段落ごとに平板に読み取らせる指導】を推進するはずはない。
また、私の回りでは、「単元を貫く言語活動」に取り組む学校が増えている。
自分の知見の範囲、それはごく限られている範囲で安易に一般化できないが、そこから実感する「現状」の問題は、【場面ごと、段落ごとに平板に、あるいは丁寧に(「詳細に」と言っていいのかもしれない)読み取らせる指導】とは別のところにある。
「フレームリーディング」について、最も強調されている特徴は「文章を丸ごと読む」ことである。
指導案では、「フレームリーディング」提案の背景となる現状の問題点への批判が2点示されている。
1点目。「文章を丸ごと読むことで見える『つながり』に気づいてこそ、その文章が『読めた』と言える」のに対して、「段落ごと、場面ごとえに切り刻んで読んだのでは、肝心な論理や伏線(=「つながり」)が見えてこない。」2点目。国語の学年ごとの授業時数は、小学校では「997755」、中学校では「443」である。「中学3年生では、週3時間の国語の授業で現代文を読み、古文を読み、漢字や文法的言語事項をこなさなければならない。指導者は大変である。当然授業は、短時間で丸ごと読んで、筆者の主張は何だとか、作品の主題は何だという投げかけになる。小学校で場面ごと段落ごとに丁寧に読む授業しか受けてこなかった子ども達は、このギャップについていけない。」
ここで、青木先生が批判の対象としているのは、小学校における【場面ごと段落ごとに切り刻み丁寧に読む授業】しか受けさせていない「現状」である。
こうした批判対象は、近年の「単元を貫く言語活動」の提案において批判されている【無目的に場面ごと,段落ごとに平板に読み取らせる指導】と一致する。
そこで、私が疑問に思ったのは、はたしてこうした「現状」が広く存在しているのか、ということである。
自分の知見の及ぶところでは、教科書会社の作成した指導計画に基づいて自校の指導計画を作成する学校が多く、教科書会社の作成した指導書によって授業を行っている教師が
多い。教科書会社では、当然【無目的に場面ごと,段落ごとに平板に読み取らせる指導】を推進するはずはない。
また、私の回りでは、「単元を貫く言語活動」に取り組む学校が増えている。
自分の知見の範囲、それはごく限られている範囲で安易に一般化できないが、そこから実感する「現状」の問題は、【場面ごと、段落ごとに平板に、あるいは丁寧に(「詳細に」と言っていいのかもしれない)読み取らせる指導】とは別のところにある。
2015年8月7日金曜日
青木先生の授業を見る①
もう十七、八年も前のことだろうか。筑波大附属小の初等の研究会に初めて参加した。その時に見たのが青木先生の物語の授業だった。先生の学級の子どもたち、そして授業が豊かな宝の山に思えた。参観記録を書き始めると、次々と見えてくることがあった。私は、青木先生の授業によって授業を見ることの意味を発見させてもらった。
その後、二瓶先生というこれまたとてつもない宝の山と出会い、若い先生たちを筑波へ誘うようになった。私だけでなく若い先生たちも二瓶学級の子どもたち、そして授業に魅せられた。そうして、支部を作ることになったのである。
この夏、基幹学力の最後の研究会で、久しぶりに青木先生の授業を見た。初めて青木先生の授業を見た自分を思い出した。やはり授業を見ることの意味を実感させてくれるものだった。
さて、自分は何を見たのか。
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