2014年2月18日火曜日

二瓶弘行先生の授業を見る③

【前ばなし場面における大もととなる設定の確認】
 本時の授業で特に確認されたのは、「人物(状況)」に関する内容でした。
 ・ギャオギャオ王子(六才にもなっていない。)
 ・都の人々
 このおさえがその後の展開の伏線になります。

【三つの問いへの答え】
 次に三つの問いへの答えが確認されます。
 ・何が変わったのか?
  王子の心
 ・どのように変わったのか?
  やかましい心→しずかな心
  やかましい音が好き→しずかな自然の音が好き
  おちつきのない心→おちついた心
 ・どうして変わったのか?
  クライマックス場面の前の5の場面で、
  一人のおくさんが世界でいちばんやかましい音を聞いてみたいと考え、
  声を出さないことにした。それがだんだんみんなに伝わったから。

【子供たちの読みを深める①】
 ここまでは、二瓶学級の子供たちの「いま読めている読み」です。
 二瓶先生は、『物語授業づくり入門編』で次のように書いています。
 「我々教師がすべきことは、子供の段階を見つつ、子どもの読みを大切にすること。子どもの『いま読めている読み」をさらに深めること。見えなかったものを見せることで、読みを広げてやること。・・・・・・それが子どもの読みを大切にするということです。」
 「見えなかったものを見せることで、読みを深め広げる」ために二瓶先生がまず子供たちに仕掛けたのは、「前ばなしと後ばなしとを対応させること」でした。
 これは、物語における変化を読み取るための方法です。この方法を子供たちは、「かさこじぞう」の読みで学習しています。そのことを思い出させ、それをここであらためて意識させ使わせたのです。
 学んだ用語や方法がすぐに「自力読み」の力となるわけではありません。用語や方法を意識し、実際に使わせ、その有効性を納得させていくことの繰り返しによって、身に付き、自ら使える武器になるのだ、 と思いました。そのためには、そうしたことが可能になる教材を用意し、見通しを持って学習を組織していかなければなりません。指導の系統性を考えるということがどういうことか少しわかったような気がしました。
 「前ばなし」と「後ばなし」では、大きく変わった都の様子が書かれています。両者を対応させることによって、「何が変わったのか?」という問いへの答えが「王子の心」だけではなく「都全体」である、という読みへ広がりました。
 都全体が変化したことは、子供たちにとっても明らかなことでした。
 では、「どのように変わったのか」、やかましい町から静かな町へ、こうした変化も明らかなことでした。しかし、このような大づかみな読みでは、「王子の心」の変化と内容的に変わるものではありません。
 二瓶先生は、文章の一つひとつの言葉に目を向けさせました。作品自体が「前ばなし」と「後ばなし」とで対となる表現をしているのです。そのことを先生は、『物語の「自力読み」を獲得させよ』でも取り上げ、対応表を示しています。
 時間があれば、ここで「詳細な読解」をさせてもいいところでしょう。一つひとつの言葉の表面的な意味からさらに解釈を深めていくと、「作品の心」へつながる意味が豊かに取り出せる、そうした作品なのです。先生は、著書の中で、「話す」という言葉、「ようこそ」という言葉などにさらりと触れています。これらの言葉は、先生自身の「作品の心」につながっています。
 今回の授業では、対応する言葉のおさえはしましたが、一つひとつのこまやかな解釈までは踏み込みませんでした。 次の仕掛けとなる一語へと向かいました。

2014年2月14日金曜日

二瓶弘行先生の授業を見る②

◆「世界でいちばんやかましい音」の授業

 【本時までの子供たちの読み】
  本時以前に、一人の子供がまとめた『物語「世界でいちばんやかましい音」のしくみ」がコピーされたプリントが資料として配布されました。(『「物語の授業づくり入門編」p66~67に載っている2年生のものと比べると子供たちの歩みがわかるようです。)
  そこでは、この作品の場面分け、あらすじ、基本4場面、前ばなし場面の大もととなる設定、大きな三つの問いの答え、そして作品の心がおさえられ、書かれている。  プリントされた子は、「大きな三つの問い」の答えを次のように書いている。
   ①何が変わったのか
    王子様の気持ち
   ②どのように変わったのか
   やかましい(とげとげしい)心→しずかな心
   ③どうして変わったのか
   5場面のおくさんがだまっていようと考え、
   世界中の人にその考えが伝わったから。
   そして、「作品の心」を次のように書いている。
   生きていれば、思い通りにならないこともある。
  でも、それをどう生かすかによって良い方向に進むこともある。
   これらは、この子たちにこれまで二瓶先生が獲得させてきた自力読みの力を示すものでしょう。  こうした読みの上で本時の授業が展開されたのでした。

 【前時までの学習の確認】
  授業のはじまりで、二瓶先生は、前時までにおさえていた基本4場面などを確認しました。
  物語のしくみとしての「前ばなし」「出来事の展開場面」「クライマックス場面」「後ばなし場面」、これらの意味を確認し、この作品の場面と対応させました。
  上の読みの観点として用語の意味の確認は、発表させるだけでなく、以前に書かせたものを読み直させたりペアで言わせたり、かなりしつこくやっていました。
  子供たちは、すでにこれらの観点を使って自力で読みをまとめています。それを考えると、この時間の確認はそれほどきっちりとやらなくてもいいような気もします。
  これらの用語は、二瓶先生が吟味した意味を持つものです。その意味を理解し、しっかりと身に付けることが二瓶先生の考える自力読みの土台になります。
  用語の意味の理解は、ただ単に言葉を暗記することではありません。それは抽象的な言葉ですが、実際に作品を読むときに具体的に機能する言葉でなければなりません。子供たちが用語によって作品へ具体的な働きかけを行った上で、その意味を再確認することが本当に理解し、身に付けることになるのでしょう。
 また、このように子供たちのためというだけでなく、授業を参観する私たちに用語を理解させるためだったのではないか、とも思われます。(むしろその方が大きかったかもしれません。)
  物語のしくみを確認し、そうすることがなんのためなのかも確認していました。
  何が、どのように、そしてどうして変わったのか、という三つの問いに答え、作品の心を考えるためであることを確認したのです。物語のしくみ、それを確認するだけなら、それはただのゲームみたいなものだとも子供たちに話していました。
  二瓶先生は、それぞれの読みの観点・用語による文章全体の読みを「三つの問い」に焦点化させます。そして、「三つの問い」の答えによって読みを方向づけた上で、「文章の詳細な読解」を向かわせ、答えを再検討させます。このような方向づけられた文章に即した読みを土台に、目標(ゴール)である「作品の心」を深めさせるのです。 ここに、二瓶先生の物語の読みの授業論の肝があると思います。

2014年2月13日木曜日

二瓶弘行先生の授業を見る①

 今日、初等教育研修会で二瓶先生の授業を参観してきました。

◆授業前の教室で  
 左近先生と授業開始の1時間以上前から二瓶学級の教室に入りました。すでに20名以上の参観者がいましたが、子供たちはまだいません。
  黒板の上の壁から廊下側の壁までずらりと並んだ二瓶学級の学習用語の書かれたカードを眺めます。初めて二瓶先生の授業を見たのは、十五年ほども前でしょうか。それ以前から使われていたらしいカードもあり、真新しいカードもあります。これらは、二瓶先生の国語教室の歴史年表です。
  左近先生と「親分段落、子分段落なんて前にあったよね。」と、今はなくなってしまったカードのことを懐かしんだり、「美写、速写なんてあるよ。」と初めて目にしたカードについて話したりしました。  「美写」「速写」、これにはなんだか妙に感心してしまったのです。二瓶学級の子供たちは、国語の基礎体力が実によく鍛えられています。こうした二瓶先生独自の学習用語からは、そうした鍛錬の一端が伺えるような気がします。
  今日の授業で取り上げられる文学作品の仕組みに関する用語は、新しく書き直されていました。これらは、二瓶先生の文学作品の読みの指導法の中核に位置する用語で、長年使用され、検討され、改訂されてきたものです。子供たちの目に入る教室前面の右端にさりげなく掲示されていました。

 ◆子供たちの語りを聞く
  授業開始の20分ほど前、子供たちが教室に入ってきました。そして、授業開始まで詩の語りを披露してくれました。 私は、十数年前二瓶先生が本格的に語りを授業の柱として取り入れた頃から、その時々の子供たちの語りを聞いてきました。今日、一人目の語りを聞いた時に、今までの子供たちとは違った何かを感じました。そして、二人目、そして三人目と語りを聞くうちに、この学級の子供たちが1年生から3年生までに作り上げてきた集団的な個性とでもいうようなものを感じました。強弱、高低の幅が広く、独特なリズムで、まるで歌うように語るのです。それは、二瓶先生が鍛えようとしてきた基礎基本の上に、子供たち自身が互いに影響し合いながら作り上げてきたもののように思われました。
  授業後の話し合いの中で、参観者からこれに触れる質問がありました。語りながら子供たちが体を揺らしていたことに関する質問でした。
  二瓶先生の話では、そうした身体的な動作は言語活動としての語りにとって不純な要素だと考えられているようでした。しかし、強くは抑制しなかったようです。子供たちの発音は明瞭でしたし、子供自身が強く出そうと意識して出した声はとてもよく響いていました。こうした基礎基本はしっかりとできているのです。その上で子供たちは独特の表現をしたがっていたわけです。その独特さは、たぶん内容理解に基づく表現としてのものではなく、「気持ちのよさ」なのではないか、と思いました。二瓶先生自身、子供たちに「絵に描くように、そして気持ちよく声を出す」ことを求めていたようです。
  子供たちの独特の語りを聞きながら、古くから詩歌は今のように音読されるのではなく、歌うように詠まれていたことを連想しました。
  この日、子供たちはみんなで一斉に「心に太陽をもて」を語りましたが、全員が同じリズムで同調し共鳴し語る姿は、実に気持ちよさそうでした。この子たちが高学年になり、内面的な表現の課題に出会う時がきたら、どんな語りをするのだろうか、とふと考えました。
  授業中気がついたことですが、付け加えておきます。
  他の子が音読する時、子供たちは自分の手元の文章を見ながら聞いていました。そして、語りや発表の時には、語り手・発表者を見て聞いていました。  こうした姿は、二瓶先生が指導されてのことでしょう。音読は読む活動であり、語る・聞くは伝え合う活動だというおさえと区別があるのだと思いました。こうした言語活動のきっちりとしたおさえが学習活動に具体化されていくことに国語教室としてのあり方について示唆を受けました。 ※うまく改行が表示されません。とりあえず。

2014年2月2日日曜日

「ヒロシマのうた」場面分け5

前回は、第2の時「戦争が終わって七年目」の部分の場面分けを行った。
「わたし」と「ミ子(ヒロ子)・母」との再会後の部分を場面8としてたが、修正する。
次のように、再会後の部分を場面8と場面9の二つに分ける。

場面8
始 「そのときの、何かヒロ子ちゃんの暗いかげが、いつまでもわたしは気になりました。」
終 「わたしは、できれば、いなかの家を出て、ヒロ子ちゃんと二人で暮らすことができないものだろうかと思い、そのことを書き送りました。」
場面9
始 「すると、その年の暮れ、ヒロ子ちゃん親子は、広島を出て、小さな洋裁学校に住みこみで働けるようになったという手紙が来ました。」
終 「わたしもいつかヒロ子ちゃんのことを、忘れていくようでした。」

ここでは、全体の場面分けが終わった後に、場面ごとの一文要約を載せようと思うのだが、実際の作業では、場面分けとともに一文要約も行っている。
再会後をひとまとまりにして要約しようしたが、うまくいかなかったのである。

場面8と場面9の間には、「その年の暮れ」という時の変化がある。「わたし」の回想において、「その年の暮れ」が「ヒロ子ちゃん」をめぐる記憶のひとつのターニングポイントになっている。
再会後、「わたし」は「ヒロ子ちゃんの暗いかげ」が気になる。そして、「ヒロ子ちゃん」の置かれた辛い状況を知る。「その年の暮れ」、二人の状況に大きな変化があり、その後「わたし」は「ヒロ子ちゃん」のことを忘れていく。「わたし」にとって、「ヒロ子ちゃん」は「気になる」状態から「忘れていくよう」な状態に変化していく。

場面を一文に要約しようとすると、「時」「場」「人物」とともに出来事などの内容の検討が必要になる。
 
場面は、形式的なものではなく、内容的なまとまりであろう。
「時」「場」「人物」は、重要な指標だが、出来事などの内容的なまとまりを検討することも場面分けでは、必要になってくる。「いつ」「どこで」「だれが」-「どうした・どうなった」、基本的に場面はこのような形で要約されると思う。

一文要約がうまくできるかどうかで分け方の妥当性がわかるのかもしれない。