今日、初等教育研修会で二瓶先生の授業を参観してきました。
◆授業前の教室で
左近先生と授業開始の1時間以上前から二瓶学級の教室に入りました。すでに20名以上の参観者がいましたが、子供たちはまだいません。
黒板の上の壁から廊下側の壁までずらりと並んだ二瓶学級の学習用語の書かれたカードを眺めます。初めて二瓶先生の授業を見たのは、十五年ほども前でしょうか。それ以前から使われていたらしいカードもあり、真新しいカードもあります。これらは、二瓶先生の国語教室の歴史年表です。
左近先生と「親分段落、子分段落なんて前にあったよね。」と、今はなくなってしまったカードのことを懐かしんだり、「美写、速写なんてあるよ。」と初めて目にしたカードについて話したりしました。
「美写」「速写」、これにはなんだか妙に感心してしまったのです。二瓶学級の子供たちは、国語の基礎体力が実によく鍛えられています。こうした二瓶先生独自の学習用語からは、そうした鍛錬の一端が伺えるような気がします。
今日の授業で取り上げられる文学作品の仕組みに関する用語は、新しく書き直されていました。これらは、二瓶先生の文学作品の読みの指導法の中核に位置する用語で、長年使用され、検討され、改訂されてきたものです。子供たちの目に入る教室前面の右端にさりげなく掲示されていました。
◆子供たちの語りを聞く
授業開始の20分ほど前、子供たちが教室に入ってきました。そして、授業開始まで詩の語りを披露してくれました。
私は、十数年前二瓶先生が本格的に語りを授業の柱として取り入れた頃から、その時々の子供たちの語りを聞いてきました。今日、一人目の語りを聞いた時に、今までの子供たちとは違った何かを感じました。そして、二人目、そして三人目と語りを聞くうちに、この学級の子供たちが1年生から3年生までに作り上げてきた集団的な個性とでもいうようなものを感じました。強弱、高低の幅が広く、独特なリズムで、まるで歌うように語るのです。それは、二瓶先生が鍛えようとしてきた基礎基本の上に、子供たち自身が互いに影響し合いながら作り上げてきたもののように思われました。
授業後の話し合いの中で、参観者からこれに触れる質問がありました。語りながら子供たちが体を揺らしていたことに関する質問でした。
二瓶先生の話では、そうした身体的な動作は言語活動としての語りにとって不純な要素だと考えられているようでした。しかし、強くは抑制しなかったようです。子供たちの発音は明瞭でしたし、子供自身が強く出そうと意識して出した声はとてもよく響いていました。こうした基礎基本はしっかりとできているのです。その上で子供たちは独特の表現をしたがっていたわけです。その独特さは、たぶん内容理解に基づく表現としてのものではなく、「気持ちのよさ」なのではないか、と思いました。二瓶先生自身、子供たちに「絵に描くように、そして気持ちよく声を出す」ことを求めていたようです。
子供たちの独特の語りを聞きながら、古くから詩歌は今のように音読されるのではなく、歌うように詠まれていたことを連想しました。
この日、子供たちはみんなで一斉に「心に太陽をもて」を語りましたが、全員が同じリズムで同調し共鳴し語る姿は、実に気持ちよさそうでした。この子たちが高学年になり、内面的な表現の課題に出会う時がきたら、どんな語りをするのだろうか、とふと考えました。
授業中気がついたことですが、付け加えておきます。
他の子が音読する時、子供たちは自分の手元の文章を見ながら聞いていました。そして、語りや発表の時には、語り手・発表者を見て聞いていました。
こうした姿は、二瓶先生が指導されてのことでしょう。音読は読む活動であり、語る・聞くは伝え合う活動だというおさえと区別があるのだと思いました。こうした言語活動のきっちりとしたおさえが学習活動に具体化されていくことに国語教室としてのあり方について示唆を受けました。
※うまく改行が表示されません。とりあえず。
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