青木先生が当日公開したのは、2年生の物語「アレクサンダとぜんまいねずみ」であった。
「中心人物の変容をとらえることができる」、これが授業の目標であった。
事前に用意されていた指導案では、主な学習活動は、以下の通りであった。
1 学習課題を考える。
・中心人物はだれか。
・何型の物語か。
・クライマックスはどこか。
2 登場人物と中心人物を確かめる。
・なぜアレクサンダが中心人物だと言えるのか。
・アレクサンダの何が変わったのか。
3 中心人物はいつ変わったのかを読む。
4 中心人物はなぜ変わったのか。
当日は、「修正版」の指導案が配布された。主な学習活動が以下のように修正されていた。
1 作品から一番面白いと思った場面を選ぶ。
・アレクサンダがとかげに願い事を伝える場面
(願いを変えた場面)
・ウイリーが本当のねずみになった場面
・アレクサンダが人間に嫌われている場面
2 なぜその場面がえらばれるのか、わけを考える。
・物語の山場で、読んでいて一番ドキドキするから。
(→クライマックス場面)
・最後に本物のねずみになれて良かったと思ったから。
(→結末の場面)
・はじめの願い事は、人間にちやほやされたいと思っていたこと。
(→冒頭場面)
3 それぞれの場面がつながって、一つの物語作品になっていることを知る。
「修正版」を見て、私がすぐに思い出したのは、「単元を貫く言語活動」であった。そこでは、課題設定において「一番好きな~」「お気に入りの~」を選択することがよく使われる。それによって、主体的な学習が展開されるからだと言う。
授業後の協議会での青木先生の発言によれば、修正の意図は、初めから「学習用語」を使った学習から入るのではなく、子どもたちの素直な反応から「学習用語」を使った学習へと展開したかった、ということらしい。
授業は、子どもたちが自分の選んだ一番好きな場面を発表し、それを教師が他の場面との「つながり」を見つけさせていくという形で進行した。
子どもたちの発表からは、「好きな場面」を選ぶ活動では、特に「学習用語」を意識していないように思えた。また、場面の「つながり」を志向する意識も子ども自身はもっていないように見えた。それは、「好きな場面を選べ」という課題への「素直な反応」だろう。
そうして子どもが選んだ場面について、教師がつっこみ「学習用語」を引き出し、「つながり」をつけていった。子どもが「好きな場面」を選ぶという動機とは別の教師の意図によって授業が展開された、私にはそう見えた。
一人ひとりの子どもは、素直に自分の好きな場面を選んだ。しかし、教師が意図したのは、一人ひとりの好きという思いを受け止めることではなかったと思う。一人ひとりの好きという思いを重視することよりも、それぞれが違った場面を選ぶことを教師は期待していた。その上で、それぞれの「つながり」から「中心人物の変容」を導き出そうとしたのだと思う。
もし、そうであるならば、山場の中心人物の変容をおさえた上で、その変容にとって「大事な場面」を考えさせる展開でよかったのではないか、と思った。
作品における学習価値と、子どもにおける作品に対する価値(好き)ということとは、区別して考えた方がいい。
今回の青木先生の授業では、「作品を丸ごと読む」ことによって、作品の中にある「つながり」を子どもたちに見出させ、「中心人物の変容」をとらえさせることを意図していたと思う。
こうした意図こそ、「フレームリーディング」という方法によるものなのだと思う。
「学習用語」にせよ、「つながり」にせよ、それは作品に内在するものであり、作品が内包する論理に基づくものである。一方、「好き」というという感情は、読み手の側にあるものである。
作品と読み手とをどうつなぐか、これはとても重要な問題である。
例えば、私が見た「単元を貫く言語活動」の授業では、子どもが選んだ「一番好きな場面・お気に入り場面」の「様子を想像」する学習を行っていた。教師が目標とするのは、「場面の様子について想像を広げる力」であったはずなのだが、子どもの読み取りはとても浅いもので、「想像を広げた」とは言えなかった。そのひとつの要因は、その場面で書かれていることだけを読んでいたためである。まさに「つながり」が意識されていなかったのである。「好き」という場面に執着させることによって、作品の「つながり」は「切り刻まれてしまう」。
作品が持つ学ぶべき価値的な内容(例えば「つながり」)をとらえさせるために、学習の出発点に学び手の「好き」という感情を置くことには、必然性があるのだろうか。学びによって見えなかった「つながり」が見えてくるという経験を通して、作品がより「好き」になるということはあるだろうが。
「好き」という感情を学習の出発点におくことが算数や理科などではあるのだろうか。
そもそも教師から「好き」な場面を選べと言われて選んだ「好き」は、主体的な学習を促し続けるほどの本当の「好き」なのだろうか。
作品と読み手とをどうつなぐか。学習すべき内容と子どもの学習をどうつなぐか。
初教研 いぶり支部
2015年8月9日日曜日
2015年8月8日土曜日
青木先生の授業を見る②
青木先生は、「フレームリーディング」という読みの授業方法を提案している。
「フレームリーディング」について、最も強調されている特徴は「文章を丸ごと読む」ことである。
2点目。国語の学年ごとの授業時数は、小学校では「997755」、中学校では「443」である。「中学3年生では、週3時間の国語の授業で現代文を読み、古文を読み、漢字や文法的言語事項をこなさなければならない。指導者は大変である。当然授業は、短時間で丸ごと読んで、筆者の主張は何だとか、作品の主題は何だという投げかけになる。小学校で場面ごと段落ごとに丁寧に読む授業しか受けてこなかった子ども達は、このギャップについていけない。」
ここで、青木先生が批判の対象としているのは、小学校における【場面ごと段落ごとに切り刻み丁寧に読む授業】しか受けさせていない「現状」である。
こうした批判対象は、近年の「単元を貫く言語活動」の提案において批判されている【無目的に場面ごと,段落ごとに平板に読み取らせる指導】と一致する。
そこで、私が疑問に思ったのは、はたしてこうした「現状」が広く存在しているのか、ということである。
自分の知見の及ぶところでは、教科書会社の作成した指導計画に基づいて自校の指導計画を作成する学校が多く、教科書会社の作成した指導書によって授業を行っている教師が
多い。教科書会社では、当然【無目的に場面ごと,段落ごとに平板に読み取らせる指導】を推進するはずはない。
また、私の回りでは、「単元を貫く言語活動」に取り組む学校が増えている。
自分の知見の範囲、それはごく限られている範囲で安易に一般化できないが、そこから実感する「現状」の問題は、【場面ごと、段落ごとに平板に、あるいは丁寧に(「詳細に」と言っていいのかもしれない)読み取らせる指導】とは別のところにある。
「フレームリーディング」について、最も強調されている特徴は「文章を丸ごと読む」ことである。
指導案では、「フレームリーディング」提案の背景となる現状の問題点への批判が2点示されている。
1点目。「文章を丸ごと読むことで見える『つながり』に気づいてこそ、その文章が『読めた』と言える」のに対して、「段落ごと、場面ごとえに切り刻んで読んだのでは、肝心な論理や伏線(=「つながり」)が見えてこない。」2点目。国語の学年ごとの授業時数は、小学校では「997755」、中学校では「443」である。「中学3年生では、週3時間の国語の授業で現代文を読み、古文を読み、漢字や文法的言語事項をこなさなければならない。指導者は大変である。当然授業は、短時間で丸ごと読んで、筆者の主張は何だとか、作品の主題は何だという投げかけになる。小学校で場面ごと段落ごとに丁寧に読む授業しか受けてこなかった子ども達は、このギャップについていけない。」
ここで、青木先生が批判の対象としているのは、小学校における【場面ごと段落ごとに切り刻み丁寧に読む授業】しか受けさせていない「現状」である。
こうした批判対象は、近年の「単元を貫く言語活動」の提案において批判されている【無目的に場面ごと,段落ごとに平板に読み取らせる指導】と一致する。
そこで、私が疑問に思ったのは、はたしてこうした「現状」が広く存在しているのか、ということである。
自分の知見の及ぶところでは、教科書会社の作成した指導計画に基づいて自校の指導計画を作成する学校が多く、教科書会社の作成した指導書によって授業を行っている教師が
多い。教科書会社では、当然【無目的に場面ごと,段落ごとに平板に読み取らせる指導】を推進するはずはない。
また、私の回りでは、「単元を貫く言語活動」に取り組む学校が増えている。
自分の知見の範囲、それはごく限られている範囲で安易に一般化できないが、そこから実感する「現状」の問題は、【場面ごと、段落ごとに平板に、あるいは丁寧に(「詳細に」と言っていいのかもしれない)読み取らせる指導】とは別のところにある。
2015年8月7日金曜日
青木先生の授業を見る①
もう十七、八年も前のことだろうか。筑波大附属小の初等の研究会に初めて参加した。その時に見たのが青木先生の物語の授業だった。先生の学級の子どもたち、そして授業が豊かな宝の山に思えた。参観記録を書き始めると、次々と見えてくることがあった。私は、青木先生の授業によって授業を見ることの意味を発見させてもらった。
その後、二瓶先生というこれまたとてつもない宝の山と出会い、若い先生たちを筑波へ誘うようになった。私だけでなく若い先生たちも二瓶学級の子どもたち、そして授業に魅せられた。そうして、支部を作ることになったのである。
この夏、基幹学力の最後の研究会で、久しぶりに青木先生の授業を見た。初めて青木先生の授業を見た自分を思い出した。やはり授業を見ることの意味を実感させてくれるものだった。
さて、自分は何を見たのか。
2014年8月30日土曜日
「モチモチの木」を読む⑦
自然の中で
モチモチの木ってのはな、豆太がつけた名前だ。小屋のすぐ前に立っている。でっかいでっかい木だ。
「とうげのりょうし小屋」での豆太とじさまの暮らしは、「りょうし」として命がけで生活の糧を得ながら、「一枚しかないふとん」で二人いっしょに眠るものである。二人の暮らしは、自然の中で、小さくつつましく営まれるものである。
それに対して、「小屋のすぐ前」に立つモチモチの木は、「でっかいでっかい木」である。
秋になると、茶色いぴかぴか光った実をいっぱいふり落としてくれる。その実をじさまが木うすでついて、石うすでひいて、こなにする。こなにしたやつををもちにこねあげて、ふかして食べると、ほっぺたが落ちそうなほどうまいんだ。
「やい、木い、モチモチの木い! 実い、落とせえ!」
なんて、片足で足ぶみして、いばってさいそくするくせに、夜になると、豆太は、もうだめなんだ。
「お化けえ!」
って上からおどかすんだ。夜のモチモチの木は、そっちを見ただけで、もうしょんべんなんか出なくなっちまう。
物語の後半、医者様が語ったところによると「モチモチの木」とは、「トチの木」らしい。それを、豆太が「モチモチの木」と呼ぶのは、どうやらその木が「ほっぺた落ちそうなほどうまい」モチを与えてくれるかららしい。
モチモチの木は、二つの顔を持っている。食べ物=生活の糧=恵みを与える昼の顔と恐怖を与える夜の顔である。
豆太のおとうは、生活の糧を得るために「くまと組みうちして、頭をぶっさかれて死んだ」。生活の糧を与えるものであった「くま」が死を与えたのである。
人に生を与えもし、死を与えもするのもの。光でもあり闇でもあるもの。昼の顔と夜の顔を持つもの。
それが自然である。
峠の猟師は、そうした自然の中で、自然とともに暮らすのである。その暮らしは小さく、自然はとてつもなく大きい。
夜のモチモチの木を恐れる豆太は確かに幼く思える。また、昼のモチモチの木に「いばってさいそく」する豆太も同じように幼く思える。
しかし、この二つの態度は、大きな自然の中で暮らす小さな人の存在の在り方に深く根差したものである。
モチモチの木ってのはな、豆太がつけた名前だ。小屋のすぐ前に立っている。でっかいでっかい木だ。
「とうげのりょうし小屋」での豆太とじさまの暮らしは、「りょうし」として命がけで生活の糧を得ながら、「一枚しかないふとん」で二人いっしょに眠るものである。二人の暮らしは、自然の中で、小さくつつましく営まれるものである。
それに対して、「小屋のすぐ前」に立つモチモチの木は、「でっかいでっかい木」である。
秋になると、茶色いぴかぴか光った実をいっぱいふり落としてくれる。その実をじさまが木うすでついて、石うすでひいて、こなにする。こなにしたやつををもちにこねあげて、ふかして食べると、ほっぺたが落ちそうなほどうまいんだ。
「やい、木い、モチモチの木い! 実い、落とせえ!」
なんて、片足で足ぶみして、いばってさいそくするくせに、夜になると、豆太は、もうだめなんだ。
「お化けえ!」
って上からおどかすんだ。夜のモチモチの木は、そっちを見ただけで、もうしょんべんなんか出なくなっちまう。
物語の後半、医者様が語ったところによると「モチモチの木」とは、「トチの木」らしい。それを、豆太が「モチモチの木」と呼ぶのは、どうやらその木が「ほっぺた落ちそうなほどうまい」モチを与えてくれるかららしい。
モチモチの木は、二つの顔を持っている。食べ物=生活の糧=恵みを与える昼の顔と恐怖を与える夜の顔である。
豆太のおとうは、生活の糧を得るために「くまと組みうちして、頭をぶっさかれて死んだ」。生活の糧を与えるものであった「くま」が死を与えたのである。
人に生を与えもし、死を与えもするのもの。光でもあり闇でもあるもの。昼の顔と夜の顔を持つもの。
それが自然である。
峠の猟師は、そうした自然の中で、自然とともに暮らすのである。その暮らしは小さく、自然はとてつもなく大きい。
夜のモチモチの木を恐れる豆太は確かに幼く思える。また、昼のモチモチの木に「いばってさいそく」する豆太も同じように幼く思える。
しかし、この二つの態度は、大きな自然の中で暮らす小さな人の存在の在り方に深く根差したものである。
2014年8月13日水曜日
「モチモチの木」を読む⑥
「しもつき二十日」の夜の豆太の変容
一読後の変容についての読みは、以下のようなものだった。
・何が変わったのか。豆太である。
・どのように変わったのか。おくびょうな子供から勇気のある子供へと変わる。
・どうして変わったのか。じさまを助けたかったからである。
さらにていねいに「しもつき二十日」以前とその夜とを比べ、何がどのように変わったのかをとらえ返してみる。
以前は、じさまといっしょに家の表(すぐ近くである)のせっちんまで出ていた。だが、この夜は、たった一人で峠からふもとまで半道もの距離を駆け下りた。何が大きく変わったかと言えば、そうした豆太の行動である。
それは、《勇気》勇気を示す行動と言えるのか。この夜の豆太の行動の様子と気持ちを見よう。
夢中でじさまにしがみつこうとしたが、じさまはいない。
(くまみたいに体を丸めてうなっているじさまを見て)
「じさまっ!」
こわくて、びっくらして、豆太はじさまにとびついた。けれども、じさまは、ころりとたたみにころげると、歯を食いしばって、ますますすごくうなるだけだった。
しもが足にかみついた。足からは血が出た。豆太はなきなき走った。いたくて、寒くて、こわかったからなあ。
でも、大すきなじさまの死んじまうほうがもっとこわかったから、なきなき医者様へ走った。
「医者様を、よばなくちゃ!」
豆太は、子犬みたいに体を丸めて表戸を体でふっとばして走り出した。ねまきのまんま。はだしで。半道もあるふもとまで……。
しもが足にかみついた。足からは血が出た。豆太はなきなき走った。いたくて、寒くて、こわかったからなあ。
でも、大すきなじさまの死んじまうほうがもっとこわかったから、なきなき医者様へ走った。
「くまみたいに体を丸めてうなっていた」じさまに対して、豆太は、「子犬みたいに体を丸めて、表戸を体でふっとばして走りだした。ねまきのまんま。はだしで。半道もあるふもとの村まで……。」
「こわくて、びっくらして」とびついてもじさまが応えてくれなかったことによって大きくなった恐怖に突き動かされ豆太は動き出す。それは《勇気》ある決断というよりも、衝動的なものと言えそうだ。
小屋を出てすぐ表にあった「モチモチの木」については何も語られていない。「モチモチの木」の恐怖をはねのける《勇気》が示されるならば、当然語られてよさそうだ。それが語られていないのは、大慌てで飛び出した豆太の目に入らなかったためであろう。
「半道」(2㎞弱)もある道のりで、「すごい月や星」、下り坂一面の「雪みたい」な「真っ白いしも」が豆太の目にも入っただろう。だが、たぶんはっきりと見えていたわけではないだろう。豆太は、ずっと「なきなき」走り続けるのだから。それは、「いたくて、寒くて、こわかったから」であり、なにより「大すきなじさまの死んでしまうのがこわかったから」なのである。
たった一人で半道もある夜の峠道を駆け下りるという「五つ」らしからぬ豆太の行動も、闇雲に《恐怖》に突き動かされたものであって、「勇気のある子」にふさわしいものとは言えないだろう。
豆太が駆けた半道は、最も大きな恐怖を感じた時なのである。恐怖を乗り越えることが《勇気》だとするならば、ここでの豆太は恐怖を乗り越えたのではなく突き動かされたのであり、《勇気》とは言えないだろう。「大すきなじさまが死んでしまう」という恐怖が大きければ大きいほど、豆太は走りに走ったのである。
ここで豆太が《勇気》を出したかどうか、《おくびょう》でなくなったかどうかは、豆太の変容の本質的な問題にはならないだろう。むしろ本質から目をそらせることになるように思う。それまでの物語の中で、それほど確かな内容をもって《勇気》は語られてはいない。ここで《勇気》を持ち出しても作品の言葉を離れて読みは空回りしてしまう気がする。
夜「モチモチの木」を恐れ家の表に出ることさえ怖がっていた豆太が、峠からふもとの村まで半道の坂道を駆け下りた、こうした変容をもたらしたのは、「大すきなじさまが死んでしまうこと」の《恐怖》によってだった、そう読みたい。
なぜ、そのことが豆太にとっては、それほど大きな恐怖なのか。
これまでに見てきた「大すきなじさま」と豆太とがふれあう具体的な姿は、それを失うことの恐怖を納得させるだろう。
また、峠の猟師小屋で父を亡くし老いたじさまと暮らす豆太の状況もそれに結びつくものであろう。
「大好きなじさまが死んでしまう」ことは、豆太にとっては、自らを守る存在、自らを愛してくれる存在を失うことである。その喪失の恐怖の大きさを語ることは、その愛情の深さを語ることである。
夜のモチモチの木が怖くて、一人ではせっちに行けなかった豆太が、「しもつき二十日」の夜、たった一人で峠からふもとまでの半道ほどもある坂道を駆け下りる。
確かにここには、大きな変容が認められることは最初に述べた。詳しく読んでいくと、自分が一読して受け取った《おくびょう》⇒《勇気》という図式はどうやら疑わしい。一読後の変容についての読みは、以下のようなものだった。
・何が変わったのか。豆太である。
・どのように変わったのか。おくびょうな子供から勇気のある子供へと変わる。
・どうして変わったのか。じさまを助けたかったからである。
さらにていねいに「しもつき二十日」以前とその夜とを比べ、何がどのように変わったのかをとらえ返してみる。
以前は、じさまといっしょに家の表(すぐ近くである)のせっちんまで出ていた。だが、この夜は、たった一人で峠からふもとまで半道もの距離を駆け下りた。何が大きく変わったかと言えば、そうした豆太の行動である。
それは、《勇気》勇気を示す行動と言えるのか。この夜の豆太の行動の様子と気持ちを見よう。
(ひがともるモチモチの木を見ることをはじめからあきらめて)
ふとんにもぐりこむと、じさまのたばこくさいむねん中に鼻をおしつけて、よいの口か らねてしまった。
(真夜中、くまのうなり声を聞いて…父を殺したのがくまであった)
「じさまあっ!」夢中でじさまにしがみつこうとしたが、じさまはいない。
(くまみたいに体を丸めてうなっているじさまを見て)
「じさまっ!」
こわくて、びっくらして、豆太はじさまにとびついた。けれども、じさまは、ころりとたたみにころげると、歯を食いしばって、ますますすごくうなるだけだった。
「医者様を、よばなくちゃ!」
豆太は、子犬みたいに体を丸めて表戸を体でふっとばして走り出した。ねまきのまんま。はだしで。半道もあるふもとまで……。しもが足にかみついた。足からは血が出た。豆太はなきなき走った。いたくて、寒くて、こわかったからなあ。
でも、大すきなじさまの死んじまうほうがもっとこわかったから、なきなき医者様へ走った。
「医者様を、よばなくちゃ!」
豆太は、子犬みたいに体を丸めて表戸を体でふっとばして走り出した。ねまきのまんま。はだしで。半道もあるふもとまで……。
しもが足にかみついた。足からは血が出た。豆太はなきなき走った。いたくて、寒くて、こわかったからなあ。
でも、大すきなじさまの死んじまうほうがもっとこわかったから、なきなき医者様へ走った。
「よいの口」からじさまの「むねん中へ鼻をおしつけて」寝てしまった豆太だが、「くまのうなり声」で目をさますと、「しがみつこうとした」じさまはいない。そして、はらいたで苦しみ体を丸めたじさまに「とびつい」てもその懐の中に入ることはできない。
夜の二人の間にあった密着が引きはがされるような事態となったのである。
ここで、豆太はただおろおろしたのではない。「医者様を、よばなくっちゃ」と判断し行動するのである。ただその行動の様子は、いかにも《勇気》あふれる様子とは言えない。「くまみたいに体を丸めてうなっていた」じさまに対して、豆太は、「子犬みたいに体を丸めて、表戸を体でふっとばして走りだした。ねまきのまんま。はだしで。半道もあるふもとの村まで……。」
「こわくて、びっくらして」とびついてもじさまが応えてくれなかったことによって大きくなった恐怖に突き動かされ豆太は動き出す。それは《勇気》ある決断というよりも、衝動的なものと言えそうだ。
小屋を出てすぐ表にあった「モチモチの木」については何も語られていない。「モチモチの木」の恐怖をはねのける《勇気》が示されるならば、当然語られてよさそうだ。それが語られていないのは、大慌てで飛び出した豆太の目に入らなかったためであろう。
「半道」(2㎞弱)もある道のりで、「すごい月や星」、下り坂一面の「雪みたい」な「真っ白いしも」が豆太の目にも入っただろう。だが、たぶんはっきりと見えていたわけではないだろう。豆太は、ずっと「なきなき」走り続けるのだから。それは、「いたくて、寒くて、こわかったから」であり、なにより「大すきなじさまの死んでしまうのがこわかったから」なのである。
たった一人で半道もある夜の峠道を駆け下りるという「五つ」らしからぬ豆太の行動も、闇雲に《恐怖》に突き動かされたものであって、「勇気のある子」にふさわしいものとは言えないだろう。
豆太が駆けた半道は、最も大きな恐怖を感じた時なのである。恐怖を乗り越えることが《勇気》だとするならば、ここでの豆太は恐怖を乗り越えたのではなく突き動かされたのであり、《勇気》とは言えないだろう。「大すきなじさまが死んでしまう」という恐怖が大きければ大きいほど、豆太は走りに走ったのである。
ここで豆太が《勇気》を出したかどうか、《おくびょう》でなくなったかどうかは、豆太の変容の本質的な問題にはならないだろう。むしろ本質から目をそらせることになるように思う。それまでの物語の中で、それほど確かな内容をもって《勇気》は語られてはいない。ここで《勇気》を持ち出しても作品の言葉を離れて読みは空回りしてしまう気がする。
夜「モチモチの木」を恐れ家の表に出ることさえ怖がっていた豆太が、峠からふもとの村まで半道の坂道を駆け下りた、こうした変容をもたらしたのは、「大すきなじさまが死んでしまうこと」の《恐怖》によってだった、そう読みたい。
なぜ、そのことが豆太にとっては、それほど大きな恐怖なのか。
これまでに見てきた「大すきなじさま」と豆太とがふれあう具体的な姿は、それを失うことの恐怖を納得させるだろう。
また、峠の猟師小屋で父を亡くし老いたじさまと暮らす豆太の状況もそれに結びつくものであろう。
「大好きなじさまが死んでしまう」ことは、豆太にとっては、自らを守る存在、自らを愛してくれる存在を失うことである。その喪失の恐怖の大きさを語ることは、その愛情の深さを語ることである。
2014年8月11日月曜日
「モチモチの木」を読む⑤
豆太が《そうしなくっちゃだめ》なこと
1・2の場面(出来事の前の設定・状況の説明部分ととらえておく。)で、語り手は、「夜中には、じさまについてってもらわないと、一人じゃしょうべんもできないのだ」と豆太の《おくびょう》を嘆いてみせ、豆太の《おくびょう》ぶりを事細かに語っていく。そして、最後には「みっともない」と嘆きつつも、「じさまは、かならずそうしてくれるんだ」、「豆太、そうしなくっちゃだめなんだ」と、「そうすること」が二人にとって必然であるかのように語るのである。
じさまが「かならずそうしてくれる」わけを、語り手は、2の場面では、そうしなければ「あしたの朝、とこの中がこうずいになっちまうもんだから」だと説明する。それは、1の場面での「いっしょにねている一枚しかないふとんを、ぬらされちまうよりいいから」という説明の繰り返しである。
こうした消極的な理由だけで、じさまは「かならずそうしてくれる」のか?
1の場面では、「それに」と付け加えられるのが、次のような説明である。
「一枚しかないふとん」に、そうした豆太とじさまがぴったりと寄り添い「いっしょに」眠るのである。
って、どんなに小さな声で言っても、
「しょんべんか。」
と、すぐ目をさましてくれる。
このように猟師として峠に「たった二人でくらし」ているじさまと豆太がぴったりと寄り添うその姿は、じさまが「かならずそうしてくれ」、豆太が「そうしなくちゃだめ」だとという二人にとっての必然性を納得させる。
その必然性が破られるのが「しもつき二十日」の夜の事件なのである。
その日の宵、豆太は、「ふとんにもぐりこむと、じさまのたばこくさいむねん中に鼻をおしつけて」眠る。いつものように、あるいはいつも以上にじさまに接触を求めたのである。
じさまは、「しんぺえすんな」と言うが、「体を丸めてうなって」いる。「こわくて、びっくらして、豆太はじさまにとびついた。」、「けれども、じさまは、ころりとたたみにころげる」のである。
その夜の事件は、二人にとっては必然であった寄り添うことが破れたこと、そしてその恐怖から始まるのである。
1・2の場面(出来事の前の設定・状況の説明部分ととらえておく。)で、語り手は、「夜中には、じさまについてってもらわないと、一人じゃしょうべんもできないのだ」と豆太の《おくびょう》を嘆いてみせ、豆太の《おくびょう》ぶりを事細かに語っていく。そして、最後には「みっともない」と嘆きつつも、「じさまは、かならずそうしてくれるんだ」、「豆太、そうしなくっちゃだめなんだ」と、「そうすること」が二人にとって必然であるかのように語るのである。
じさまが「かならずそうしてくれる」わけを、語り手は、2の場面では、そうしなければ「あしたの朝、とこの中がこうずいになっちまうもんだから」だと説明する。それは、1の場面での「いっしょにねている一枚しかないふとんを、ぬらされちまうよりいいから」という説明の繰り返しである。
こうした消極的な理由だけで、じさまは「かならずそうしてくれる」のか?
1の場面では、「それに」と付け加えられるのが、次のような説明である。
とうげのりょうし小屋に、自分とたった二人でくらしている豆太がかわいそうで、かわいかったからだろうか。
語り手は「それに」と付け加えた上で「だろうか」と推量としてほのめかすように述べる。しかし、語り手の隠しつつ示すという語り口を考えると、これこそが、じさまが「かならずそうしてくれる」ことを説明する強い心情的な理由なのではと思われる。
「一枚しかないふとん」についても、それがぬらされては困ることを訴えつつ、二人の貧しい暮らしを示している。命を危険にさらす猟師としての生活も「一枚のふとん」で「いっしょに」眠ることを維持するのが精いっぱいなのだ。
猟師としての父の死は、そうした生活にとっては大きな打撃だったに違いない。生活する上の影響だけではない。まだ「五つ」の豆太の心への打撃を思うと、じさまの「かわいそう」というの心情は当然に思える。心への打撃は、豆太だけのことではない。じさまにとっても、それは同じなのだ。豆太の父とは、じさまにとっては息子である。「かわいい」わが子なのである。亡くしたわが子の息子が「かわいい」のも当然のことであろう。「一枚しかないふとん」に、そうした豆太とじさまがぴったりと寄り添い「いっしょに」眠るのである。
じさまは、ぐっすりねむっている真夜中に、豆太が、
「じさまあ。」って、どんなに小さな声で言っても、
「しょんべんか。」
と、すぐ目をさましてくれる。
じさまは、「ぐっすりねむっている真夜中に」もかかわらず、「どんなに小さな声」でも「すぐに」豆太に応える。
そして、じさまは、豆太の小さな体に自らをぴったりと寄り添わせるように、「しゃがんだひざの中に豆太をかかえて」、言う。
「ああ、いい夜だ。星に手がとどきそうだ。おくやまじゃあ、しかやくまめらが、鼻ぢょうちん出して、ねっこけてやがるべ。それ、しいいっ。」
「いい夜だ。星に手がとどきそうだ。」、そう言って、夜の闇の怖さを紛らせ、「モチモチの木」の向こうにある「星」の光に豆太の視線をつなごうとしているようだ。
そして、猟師にとっては、生活の糧であるとともに命を危険にさらす存在でもある、じさまが「おっかける」「しか」も、おとうを「ぶっころした」「くま」も、今は「おくやま」で「ねっこけてやがる」からと安心させようとしているようである。このように猟師として峠に「たった二人でくらし」ているじさまと豆太がぴったりと寄り添うその姿は、じさまが「かならずそうしてくれ」、豆太が「そうしなくちゃだめ」だとという二人にとっての必然性を納得させる。
その必然性が破られるのが「しもつき二十日」の夜の事件なのである。
その日の宵、豆太は、「ふとんにもぐりこむと、じさまのたばこくさいむねん中に鼻をおしつけて」眠る。いつものように、あるいはいつも以上にじさまに接触を求めたのである。
ところが、真夜中、じけんが起こる。
いつもは豆太の声でじさまが起きるのだが、この夜はじさまの「うなり声」で豆太が目をさました。そして、「夢中でじさまにしがみつこうとしたが、じさまがいない」のだ。じさまは、「しんぺえすんな」と言うが、「体を丸めてうなって」いる。「こわくて、びっくらして、豆太はじさまにとびついた。」、「けれども、じさまは、ころりとたたみにころげる」のである。
その夜の事件は、二人にとっては必然であった寄り添うことが破れたこと、そしてその恐怖から始まるのである。
2014年8月9日土曜日
「モチモチの木」を読む④
豆太の《恐怖》④
・じさまは、かならずそうしてくれるんだ。五つにもなって「しい」なんて、
みっともいやなあ。
こうして語り手が嘆く豆太の「おくびょう」の特別さには、よくよく注意しなければならない。
「くまと組みうち」したおとうの死にざまは、確かに「きも助」のものだと言える。だが、それは、豆太にとって「きも助」だと賞賛や誇りの気持ちだけで受け止められることだろうか。自分の父がくまに「頭をぶっかされて死ん」でしまう。その残酷さ、そして喪失は、むしろ恐怖ではないだろうか。豆太は、まだ「五つ」なのである。
作品に言及されていない母もまた失われた存在である。「五つ」の子には、父や母といった自分を守ってくれる存在は不可欠である。そうした存在の父や母の喪失は、まだ「五つ」の豆太にとって、どれほど過酷あり、恐怖であったことだろう。
じさまだけが、「五つ」の豆太にとって頼れる存在だった。そのじさまの猟師としての「みごと」ささえ、豆太にとっては、心配の種となっただろう。おとうの「きも助」ぶりが死につながった失敗を知っているのだ。じさまの失敗を恐れる気持ちももっていたはずである。じさまは、もう「六十四」なのだ。
誰もが「五つ」の頃には、夜の闇に恐怖を感じることがあったに違いない。だが、語り手は、それでも豆太が特別に《おくびょう》なのだと言いたいかのように、その「みっともない」姿を繰り返し嘆いてみせる。
・もう五つにもなったんだから、夜中に一人でせっちんくらいに行けたっていい。
・夜中には、じさまについてってもらわないと、一人じゃしょうべんもできないのだ。・じさまは、かならずそうしてくれるんだ。五つにもなって「しい」なんて、
みっともいやなあ。
豆太は、一人でせっちんに行けない。じさまは、「ぐっすりねむっている真夜中に」起こされ、ついていかなければならないのである。語り手の嘆きは、こうしたじさまを気の毒に思ってのことかもしれない。
確かに自分にも夜中トイレに行くことは怖かった記憶はある。まして、豆太の生きる時代や場所の深い闇を考えると、その恐怖も大きなものだったと思える。しかし、いつもいつもじさまを起こしてついていってもらうとは…、そんな気もしてくる。
語り手が嘆くわけは。もう一つある。
豆太のおとうだって、くまと組みうちして、頭をぶっさかれて死んだほどのきも助だったし、じさまだって六十四の今、まだ青じしをおっかけて、きもをひやすような岩から岩へのとびうつりだって、みごとにやってのけるのだ。
それなのに、どうして豆太だけが、こんなにおくびょうなのか――。
語り手は、猟師としてのおとうやじさまを賞賛する。おとうの「きも助」(教科書注「きもったまの太い、勇気のある男」」)ぶりやじさま「みごと」さを語り、それなのに、子であり孫である豆太が…というわけである。
こうして語り手が嘆く豆太の「おくびょう」の特別さには、よくよく注意しなければならない。
「くまと組みうち」したおとうの死にざまは、確かに「きも助」のものだと言える。だが、それは、豆太にとって「きも助」だと賞賛や誇りの気持ちだけで受け止められることだろうか。自分の父がくまに「頭をぶっかされて死ん」でしまう。その残酷さ、そして喪失は、むしろ恐怖ではないだろうか。豆太は、まだ「五つ」なのである。
作品に言及されていない母もまた失われた存在である。「五つ」の子には、父や母といった自分を守ってくれる存在は不可欠である。そうした存在の父や母の喪失は、まだ「五つ」の豆太にとって、どれほど過酷あり、恐怖であったことだろう。
じさまだけが、「五つ」の豆太にとって頼れる存在だった。そのじさまの猟師としての「みごと」ささえ、豆太にとっては、心配の種となっただろう。おとうの「きも助」ぶりが死につながった失敗を知っているのだ。じさまの失敗を恐れる気持ちももっていたはずである。じさまは、もう「六十四」なのだ。
真夜中、峠からふもとまで半道(2㎞弱)もある、霜の降りた道をはだしで駆け下りさせた、「大好きなじさまの死んでしまう」ことの豆太の恐怖は、まだ「五つ」にしてすでに父母をなくしてしまった豆太の「おくびょう」の底にある恐怖にまっすぐ結びつくものであった。
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