誰もが「五つ」の頃には、夜の闇に恐怖を感じることがあったに違いない。だが、語り手は、それでも豆太が特別に《おくびょう》なのだと言いたいかのように、その「みっともない」姿を繰り返し嘆いてみせる。
・もう五つにもなったんだから、夜中に一人でせっちんくらいに行けたっていい。
・夜中には、じさまについてってもらわないと、一人じゃしょうべんもできないのだ。・じさまは、かならずそうしてくれるんだ。五つにもなって「しい」なんて、
みっともいやなあ。
豆太は、一人でせっちんに行けない。じさまは、「ぐっすりねむっている真夜中に」起こされ、ついていかなければならないのである。語り手の嘆きは、こうしたじさまを気の毒に思ってのことかもしれない。
確かに自分にも夜中トイレに行くことは怖かった記憶はある。まして、豆太の生きる時代や場所の深い闇を考えると、その恐怖も大きなものだったと思える。しかし、いつもいつもじさまを起こしてついていってもらうとは…、そんな気もしてくる。
語り手が嘆くわけは。もう一つある。
豆太のおとうだって、くまと組みうちして、頭をぶっさかれて死んだほどのきも助だったし、じさまだって六十四の今、まだ青じしをおっかけて、きもをひやすような岩から岩へのとびうつりだって、みごとにやってのけるのだ。
それなのに、どうして豆太だけが、こんなにおくびょうなのか――。
語り手は、猟師としてのおとうやじさまを賞賛する。おとうの「きも助」(教科書注「きもったまの太い、勇気のある男」」)ぶりやじさま「みごと」さを語り、それなのに、子であり孫である豆太が…というわけである。
こうして語り手が嘆く豆太の「おくびょう」の特別さには、よくよく注意しなければならない。
「くまと組みうち」したおとうの死にざまは、確かに「きも助」のものだと言える。だが、それは、豆太にとって「きも助」だと賞賛や誇りの気持ちだけで受け止められることだろうか。自分の父がくまに「頭をぶっかされて死ん」でしまう。その残酷さ、そして喪失は、むしろ恐怖ではないだろうか。豆太は、まだ「五つ」なのである。
作品に言及されていない母もまた失われた存在である。「五つ」の子には、父や母といった自分を守ってくれる存在は不可欠である。そうした存在の父や母の喪失は、まだ「五つ」の豆太にとって、どれほど過酷あり、恐怖であったことだろう。
じさまだけが、「五つ」の豆太にとって頼れる存在だった。そのじさまの猟師としての「みごと」ささえ、豆太にとっては、心配の種となっただろう。おとうの「きも助」ぶりが死につながった失敗を知っているのだ。じさまの失敗を恐れる気持ちももっていたはずである。じさまは、もう「六十四」なのだ。
真夜中、峠からふもとまで半道(2㎞弱)もある、霜の降りた道をはだしで駆け下りさせた、「大好きなじさまの死んでしまう」ことの豆太の恐怖は、まだ「五つ」にしてすでに父母をなくしてしまった豆太の「おくびょう」の底にある恐怖にまっすぐ結びつくものであった。
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