中心人物・豆太が《おくびょう》から《勇気》へと最も大きく変容すると思われる場面においても、やはり豆太はこわがっていた。「大好きなじさまが死んでしまう」ことへの恐怖心があったのだ。
その恐怖は、豆太にとって最大のものであり、読み手に《おくびょうなやつ=豆太》の恐怖の本質を明かす鍵となるものである。その気づきは、作品の設定を読み直すことを促す。
【時】
物語全体の【時】の設定は、明示されていないが「昔」としておいていいだろう。「今」のように電気などない時代だ。
出来事が起きるのは、「しもつき二十日」。その日の昼(夜以前)、夜、次の朝、その晩と出来事は展開される。「夜」と「昼」の対比も重要であろう。
【場】
「とうげのりょうし小屋」に豆太とじさまは暮らしている。
「しもつき二十日」の夜、豆太は峠をふもとまで下り戻ってくる。
【人物】
・中心人物=豆太(5歳)
・重要人物=じさま(64歳、猟師)
・その他=医者様
・言及される人物として重要なのは「おとう」(「きも助」、すでに死んでいる)
・そして重要な事物として「モチモチの木」(豆太の恐怖の対象。勇気の証ともなる。)
【状況】
・豆太、じさまとの二人暮らし。(おとうは死んでいる。母については言及なし。)
・「小屋」「一枚しかないふとん」→貧しい。
「おくびょうなやつ」豆太が恐怖するのは、夜の「モチモチの木」である。その様子は、次のように語られる。
(せっちんは表にあるし、)表には大きなモチモチの木がつっ立って、空いっぱいのかみの毛をバサバサとふるって、両手を「わあっ!」と上げる…
(夜になると、豆太は、もうだめなんだ。)木がおこって、両手で、「お化けえ!」って、上からおどかすんだ。
これが豆太の恐怖する「モチモチの木」の姿である。
「モチモチの木」が豆太に恐怖心を与えるのではなく、豆太の恐怖心が「モチモチの木」を擬人化(擬化け物化?)してしまうのだ。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」である。と大人なら言うだろう。「全く、豆太ほどおくびょうなやつはいない」と語るその見方は、そうしたものだろう。語り手はそうした見方を促しつつ、「もう五つにもなったんだから」と嘆いてみせる。だが、「もう五つ」と言われ、「そうだよな」とうなずいていいのだろうか。「まだ五つ」なのではないのか。
場所は、夜中の峠である。電気も灯りもない昔である。また、猟を営むものが住む峠なのである。人の気配などないだろう。しかも小屋という内から外へ出ていかなければならない。闇は深い。そうした闇の中で、五つの子が「モチモチの木」のおどされて不思議はない。
語り手は、巧妙に豆太の《おくびょう》さを語っている。「もう五つにもなって」と嘆いてみせ、ことさら強調することによって、「まだ五つ」であることを隠しながらも同時に気づきを促すのである。わざとらしい嘆きと大人らしい見方にうかうかと同調しなければ、「本当は自分だって五つの頃は、夜中に目覚めてトイレに行くことが怖かった」、そうした気づきが促されるはずなのである。
(斎藤隆介の作品は民話の体裁をとった創作童話だというが、その語り口は実に巧妙な仕掛けがあるようだ。これについても後日書けたらと思う。)
〈つづく〉
0 件のコメント:
コメントを投稿