そこで、「モチモチの木」の授業を見ました。そして、二瓶先生の『お母さんと一緒の読解力教室』という本を買い読みました。そこで、触発され、考えてみようと思ったのが、「モチモチの木」の読みのことでした。
とりあえず、書いてみたところまで。
「モチモチの木」のあらすじは、こうだ。
おくびょうな豆太は、夜、表にあるせっちんに一人ではいけない。大きなモチモチの木が怖いのである。寝ているじさまを起こし、ついていってもらわなければならない。
しもつきの二十日の夜、モチモチの木にひがともる。勇気のある一人の子供だけが見ることができるのだ、とじさまは豆太に話す。その夜、じさまがはらいたで苦しむ。豆太は、一人で夜道をかけ、お医者様を呼びに行く。その帰り、モチモチの木にひがともるのを豆太は見る。
でも、じさまが元気になったそのばんから、豆太はしょうべんにじさまを起こす。
何かが大きく変わるのは、「しもつき二十日の夜」である。その場面で、何が、どのように、どうして変わるのか。
何が変わったのか。それは、もちろん豆太である。
どのように変わったのか。おくびょうな子供から勇気のある子供へと変わる。
どうして変わったのか。じさまを助けたかったからである。と、読む。「おくびょう」と「勇気」という枠組みでつい読んでしまう。
だが、物語の終わり、豆太は、じさまが元気になると、やっぱりしょんべんにじさまを起こす。
にやりと笑える最後である。
その笑いは、さらに作品の読みへと誘う。「おくびょう」から「勇気」へという常識的な読みを笑っているように思えるからだ。
物語を何事かの変容ととらえ、その変容のから物語の主題をとらえる方法がある。二瓶先生の「クライマックス読解法」もそのひとつだろう。
方法は、どのような作品にも通用できる一般性を求める。だが、作品は、その作品自身を読めと誘う。もっと言葉を読めと誘う。二瓶先生の方法の「きも」は、そのような作品の誘いに敏感になることではないか、と思う。二瓶先生は、「見えないものが見えるようする」のが授業であると言う。「見えないものが見えるようになる」ためには、そうした敏感さが必要なのだと思う。
だが、方法によって、見えた気になり、読んだ気になってしまいがちである。そして、作品の言葉から目は離れていく。そして、方法に守られた自分の見方を自分の言葉で語ってしまう。
二瓶先生の方法は、作品の言葉から自分の言葉を引き出す武器である。だが、それは自分の見方、自分の読みを守り固定するものではない。作品の言葉をよりよく見るための武器であり、それによって自分の見方、自分の読みを破壊し更新するための武器なのである。
作品が自分に語りかけてくる、と二瓶先生は言う。作品が語りかけてくることに敏感でなければならない。
「モチモチの木」の最後に誘われた笑いは、見えていない自分の読みに気づかせるものだった。作品はもっと語りたがっているのだ。
目を凝らすと、作品の言葉が立ち上がり、立ち上がった言葉たちが手を取り合う。耳を澄ますと、作品の言葉は声を発し、言葉たちの声は響き合う、はずなのだ。
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