「初等教育」2月号、二瓶弘行先生の「物語の『読みの力』再考」を読んだ。
僕たち(二瓶先生は僕より2歳上です)が教師になった頃、国語の研究授業と言えば、そのほとんどが物語の授業であった。
そうした動向の背景には、いくつもの文学作品の読みの理論が存在していた。
法則化の台頭とともに分析批評が脚光を浴び始めた頃である。
そして、大西忠治氏が独自の読みの理論を展開し、読み研が発足した時期でもあった。
それ以前に、教科研や文芸研、一読総合法などの理論がすでに確固たるものとしてあった。
これらは、それぞれに体系化された大きな理論であった。
その後、学習指導要領における文学作品の扱いはどんどん軽くなり、現場での関心もそれに連動していった、ように思う。
70年代まで持続した文学作品の読みの理論構築への意志は、90年代にはついえてしまった、ように思う。
二瓶先生の教室をたずねると、教室の壁面にずらりと並んだ読みの学習用語のカードに目を奪われる。
黄ばんだ地に変色した文字のカードがある。二瓶先生が学んだ大理論から借りてきた用語で長年の実践の中で生き残ったものだ。
今、まさに試行し始めたらしい真新しいカードもある。
こうしたカードの背後に、二瓶先生の読みの理論を実践を通して「再考」し続ける姿が見える。
二瓶先生の授業は、常に理論の実践的「再考」であり、再構築である。
それは、その時々の新しいアイデアとは全く違う。
そこには理論構築の意志がある。
今回の先生の文章を読み、これまで「再考」し続けてきた先生の理論的営為がより確かな統一の段階をむかえたのだ、と思う。
2月の初等の学習公開では、「文学単元『自力読み・対話・語り』」が予告されている。
12年前、表現活動のオプションのひとつだった「語り」を学習の大きな柱に据え、その後「対話」を方法化し追求してきた学習活動についての理論的・実践的なまとめになるのかもしれない。
二瓶先生の読みの理論は「自力読みの観点」として体系化されているが、「自力読み・対話・語り」は二瓶先生独自の言語学習論である。
二瓶先生のすごさは、学習論が読みの理論の実践的な追求の中から生まれてきたことだ。
90年代以降、読みの理論への関心は薄れ、学習者や学習活動へと関心はむかった。
しかし、二瓶先生は、読みの理論を手放すことなく、それを学習者の読みの力の理論へと転換し、さらに読みの授業実践から読みの学習活動論を追求してきた。
支部の講座で二瓶先生は、「自力読み」について、教師が教材分析する力自体を子どもにつけていかなければならない、と語っていた。
しかし、気がつくと僕のまわりでは、読みの理論を知らない教師自身に読みの力が育っていないという状況があった。
先進校における子どもの読み、子供の活動を重視した研究授業において、すぐれた子どもの読みを教師が理解できないという喜劇さえ生じていた。
そのおかしさを感じていた頃に出会ったのが二瓶先生であった。
12年前、1年生の「いつでも会える」の授業を思い出す。
それからずっと二瓶先生の後を追ってきたが、この数年すっかり足を止めてしまった。
幸い、二瓶先生に出会った若い(その頃は、だが)先生たちが後を追ってくれていた。
来週、彼らと二瓶先生の授業を見る。
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