2014年8月30日土曜日

「モチモチの木」を読む⑦

 自然の中で 

 モチモチの木ってのはな、豆太がつけた名前だ。小屋のすぐ前に立っている。でっかいでっかい木だ。
 

 「とうげのりょうし小屋」での豆太とじさまの暮らしは、「りょうし」として命がけで生活の糧を得ながら、「一枚しかないふとん」で二人いっしょに眠るものである。二人の暮らしは、自然の中で、小さくつつましく営まれるものである。
 それに対して、「小屋のすぐ前」に立つモチモチの木は、「でっかいでっかい木」である。
 

 秋になると、茶色いぴかぴか光った実をいっぱいふり落としてくれる。その実をじさまが木うすでついて、石うすでひいて、こなにする。こなにしたやつををもちにこねあげて、ふかして食べると、ほっぺたが落ちそうなほどうまいんだ。
「やい、木い、モチモチの木い! 実い、落とせえ!」
なんて、片足で足ぶみして、いばってさいそくするくせに、夜になると、豆太は、もうだめなんだ。
「お化けえ!」
って上からおどかすんだ。夜のモチモチの木は、そっちを見ただけで、もうしょんべんなんか出なくなっちまう。
 
 

 物語の後半、医者様が語ったところによると「モチモチの木」とは、「トチの木」らしい。それを、豆太が「モチモチの木」と呼ぶのは、どうやらその木が「ほっぺた落ちそうなほどうまい」モチを与えてくれるかららしい。
 モチモチの木は、二つの顔を持っている。食べ物=生活の糧=恵みを与える昼の顔と恐怖を与える夜の顔である。
 豆太のおとうは、生活の糧を得るために「くまと組みうちして、頭をぶっさかれて死んだ」。生活の糧を与えるものであった「くま」が死を与えたのである。
 人に生を与えもし、死を与えもするのもの。光でもあり闇でもあるもの。昼の顔と夜の顔を持つもの。
 それが自然である。
 峠の猟師は、そうした自然の中で、自然とともに暮らすのである。その暮らしは小さく、自然はとてつもなく大きい。
 夜のモチモチの木を恐れる豆太は確かに幼く思える。また、昼のモチモチの木に「いばってさいそく」する豆太も同じように幼く思える。
 しかし、この二つの態度は、大きな自然の中で暮らす小さな人の存在の在り方に深く根差したものである。

2014年8月13日水曜日

「モチモチの木」を読む⑥

「しもつき二十日」の夜の豆太の変容

 夜のモチモチの木が怖くて、一人ではせっちに行けなかった豆太が、「しもつき二十日」の夜、たった一人で峠からふもとまでの半道ほどもある坂道を駆け下りる。
 確かにここには、大きな変容が認められることは最初に述べた。詳しく読んでいくと、自分が一読して受け取った《おくびょう》⇒《勇気》という図式はどうやら疑わしい。

 一読後の変容についての読みは、以下のようなものだった。
 ・何が変わったのか。豆太である。
 ・どのように変わったのか。おくびょうな子供から勇気のある子供へと変わる。
 ・どうして変わったのか。じさまを助けたかったからである。
 さらにていねいに「しもつき二十日」以前とその夜とを比べ、何がどのように変わったのかをとらえ返してみる。

 以前は、じさまといっしょに家の表(すぐ近くである)のせっちんまで出ていた。だが、この夜は、たった一人で峠からふもとまで半道もの距離を駆け下りた。何が大きく変わったかと言えば、そうした豆太の行動である。
 それは、《勇気》勇気を示す行動と言えるのか。この夜の豆太の行動の様子と気持ちを見よう。
 

(ひがともるモチモチの木を見ることをはじめからあきらめて)
ふとんにもぐりこむと、じさまのたばこくさいむねん中に鼻をおしつけて、よいの口か  らねてしまった。 

(真夜中、くまのうなり声を聞いて…父を殺したのがくまであった)
「じさまあっ!」
夢中でじさまにしがみつこうとしたが、じさまはいない。

(くまみたいに体を丸めてうなっているじさまを見て)
「じさまっ!」
こわくて、びっくらして、豆太はじさまにとびついた。けれども、じさまは、ころりとたたみにころげると、歯を食いしばって、ますますすごくうなるだけだった。

「医者様を、よばなくちゃ!」
豆太は、子犬みたいに体を丸めて表戸を体でふっとばして走り出した。ねまきのまんま。はだしで。半道もあるふもとまで……。
 

しもが足にかみついた。足からは血が出た。豆太はなきなき走った。いたくて、寒くて、こわかったからなあ。
でも、大すきなじさまの死んじまうほうがもっとこわかったから、なきなき医者様へ走った。

「医者様を、よばなくちゃ!」
豆太は、子犬みたいに体を丸めて表戸を体でふっとばして走り出した。ねまきのまんま。はだしで。半道もあるふもとまで……。
 

しもが足にかみついた。足からは血が出た。豆太はなきなき走った。いたくて、寒くて、こわかったからなあ。
でも、大すきなじさまの死んじまうほうがもっとこわかったから、なきなき医者様へ走った。

 「よいの口」からじさまの「むねん中へ鼻をおしつけて」寝てしまった豆太だが、「くまのうなり声」で目をさますと、「しがみつこうとした」じさまはいない。そして、はらいたで苦しみ体を丸めたじさまに「とびつい」てもその懐の中に入ることはできない。
  夜の二人の間にあった密着が引きはがされるような事態となったのである。
  ここで、豆太はただおろおろしたのではない。「医者様を、よばなくっちゃ」と判断し行動するのである。ただその行動の様子は、いかにも《勇気》あふれる様子とは言えない。
 「くまみたいに体を丸めてうなっていた」じさまに対して、豆太は、「子犬みたいに体を丸めて、表戸を体でふっとばして走りだした。ねまきのまんま。はだしで。半道もあるふもとの村まで……。」
 「こわくて、びっくらして」とびついてもじさまが応えてくれなかったことによって大きくなった恐怖に突き動かされ豆太は動き出す。それは《勇気》ある決断というよりも、衝動的なものと言えそうだ。
 小屋を出てすぐ表にあった「モチモチの木」については何も語られていない。「モチモチの木」の恐怖をはねのける《勇気》が示されるならば、当然語られてよさそうだ。それが語られていないのは、大慌てで飛び出した豆太の目に入らなかったためであろう。
 「半道」(2㎞弱)もある道のりで、「すごい月や星」、下り坂一面の「雪みたい」な「真っ白いしも」が豆太の目にも入っただろう。だが、たぶんはっきりと見えていたわけではないだろう。豆太は、ずっと「なきなき」走り続けるのだから。それは、「いたくて、寒くて、こわかったから」であり、なにより「大すきなじさまの死んでしまうのがこわかったから」なのである。
 たった一人で半道もある夜の峠道を駆け下りるという「五つ」らしからぬ豆太の行動も、闇雲に《恐怖》に突き動かされたものであって、「勇気のある子」にふさわしいものとは言えないだろう。
豆太が駆けた半道は、最も大きな恐怖を感じた時なのである。恐怖を乗り越えることが《勇気》だとするならば、ここでの豆太は恐怖を乗り越えたのではなく突き動かされたのであり、《勇気》とは言えないだろう。「大すきなじさまが死んでしまう」という恐怖が大きければ大きいほど、豆太は走りに走ったのである。
 ここで豆太が《勇気》を出したかどうか、《おくびょう》でなくなったかどうかは、豆太の変容の本質的な問題にはならないだろう。むしろ本質から目をそらせることになるように思う。それまでの物語の中で、それほど確かな内容をもって《勇気》は語られてはいない。ここで《勇気》を持ち出しても作品の言葉を離れて読みは空回りしてしまう気がする。
 夜「モチモチの木」を恐れ家の表に出ることさえ怖がっていた豆太が、峠からふもとの村まで半道の坂道を駆け下りた、こうした変容をもたらしたのは、「大すきなじさまが死んでしまうこと」の《恐怖》によってだった、そう読みたい。
 なぜ、そのことが豆太にとっては、それほど大きな恐怖なのか。
 これまでに見てきた「大すきなじさま」と豆太とがふれあう具体的な姿は、それを失うことの恐怖を納得させるだろう。
 また、峠の猟師小屋で父を亡くし老いたじさまと暮らす豆太の状況もそれに結びつくものであろう。
 「大好きなじさまが死んでしまう」ことは、豆太にとっては、自らを守る存在、自らを愛してくれる存在を失うことである。その喪失の恐怖の大きさを語ることは、その愛情の深さを語ることである。

2014年8月11日月曜日

「モチモチの木」を読む⑤

豆太が《そうしなくっちゃだめ》なこと

1・2の場面(出来事の前の設定・状況の説明部分ととらえておく。)で、語り手は、「夜中には、じさまについてってもらわないと、一人じゃしょうべんもできないのだ」と豆太の《おくびょう》を嘆いてみせ、豆太の《おくびょう》ぶりを事細かに語っていく。そして、最後には「みっともない」と嘆きつつも、「じさまは、かならずそうしてくれるんだ」、「豆太、そうしなくっちゃだめなんだ」と、「そうすること」が二人にとって必然であるかのように語るのである。
 じさまが「かならずそうしてくれる」わけを、語り手は、2の場面では、そうしなければ「あしたの朝、とこの中がこうずいになっちまうもんだから」だと説明する。それは、1の場面での「いっしょにねている一枚しかないふとんを、ぬらされちまうよりいいから」という説明の繰り返しである。
 こうした消極的な理由だけで、じさまは「かならずそうしてくれる」のか?
 1の場面では、「それに」と付け加えられるのが、次のような説明である。

とうげのりょうし小屋に、自分とたった二人でくらしている豆太がかわいそうで、かわいかったからだろうか。

語り手は「それに」と付け加えた上で「だろうか」と推量としてほのめかすように述べる。しかし、語り手の隠しつつ示すという語り口を考えると、これこそが、じさまが「かならずそうしてくれる」ことを説明する強い心情的な理由なのではと思われる。

「一枚しかないふとん」についても、それがぬらされては困ることを訴えつつ、二人の貧しい暮らしを示している。命を危険にさらす猟師としての生活も「一枚のふとん」で「いっしょに」眠ることを維持するのが精いっぱいなのだ。
猟師としての父の死は、そうした生活にとっては大きな打撃だったに違いない。生活する上の影響だけではない。まだ「五つ」の豆太の心への打撃を思うと、じさまの「かわいそう」というの心情は当然に思える。心への打撃は、豆太だけのことではない。じさまにとっても、それは同じなのだ。豆太の父とは、じさまにとっては息子である。「かわいい」わが子なのである。亡くしたわが子の息子が「かわいい」のも当然のことであろう。
 「一枚しかないふとん」に、そうした豆太とじさまがぴったりと寄り添い「いっしょに」眠るのである。

じさまは、ぐっすりねむっている真夜中に、豆太が、
 「じさまあ。」
 って、どんなに小さな声で言っても、
 「しょんべんか。」
 と、すぐ目をさましてくれる。

じさまは、「ぐっすりねむっている真夜中に」もかかわらず、「どんなに小さな声」でも「すぐに」豆太に応える。
そして、じさまは、豆太の小さな体に自らをぴったりと寄り添わせるように、「しゃがんだひざの中に豆太をかかえて」、言う。

「ああ、いい夜だ。星に手がとどきそうだ。おくやまじゃあ、しかやくまめらが、鼻ぢょうちん出して、ねっこけてやがるべ。それ、しいいっ。」

「いい夜だ。星に手がとどきそうだ。」、そう言って、夜の闇の怖さを紛らせ、「モチモチの木」の向こうにある「星」の光に豆太の視線をつなごうとしているようだ。
そして、猟師にとっては、生活の糧であるとともに命を危険にさらす存在でもある、じさまが「おっかける」「しか」も、おとうを「ぶっころした」「くま」も、今は「おくやま」で「ねっこけてやがる」からと安心させようとしているようである。
 このように猟師として峠に「たった二人でくらし」ているじさまと豆太がぴったりと寄り添うその姿は、じさまが「かならずそうしてくれ」、豆太が「そうしなくちゃだめ」だとという二人にとっての必然性を納得させる。
  
 

 その必然性が破られるのが「しもつき二十日」の夜の事件なのである。
その日の宵、豆太は、「ふとんにもぐりこむと、じさまのたばこくさいむねん中に鼻をおしつけて」眠る。いつものように、あるいはいつも以上にじさまに接触を求めたのである。
ところが、真夜中、じけんが起こる。
いつもは豆太の声でじさまが起きるのだが、この夜はじさまの「うなり声」で豆太が目をさました。そして、「夢中でじさまにしがみつこうとしたが、じさまがいない」のだ。
 じさまは、「しんぺえすんな」と言うが、「体を丸めてうなって」いる。「こわくて、びっくらして、豆太はじさまにとびついた。」、「けれども、じさまは、ころりとたたみにころげる」のである。
 その夜の事件は、二人にとっては必然であった寄り添うことが破れたこと、そしてその恐怖から始まるのである。

 

2014年8月9日土曜日

「モチモチの木」を読む④

豆太の《恐怖》④

 誰もが「五つ」の頃には、夜の闇に恐怖を感じることがあったに違いない。だが、語り手は、それでも豆太が特別に《おくびょう》なのだと言いたいかのように、その「みっともない」姿を繰り返し嘆いてみせる。
 
 ・もう五つにもなったんだから、夜中に一人でせっちんくらいに行けたっていい。
 ・夜中には、じさまについてってもらわないと、一人じゃしょうべんもできないのだ。
 ・じさまは、かならずそうしてくれるんだ。五つにもなって「しい」なんて、
  みっともいやなあ。

 豆太は、一人でせっちんに行けない。じさまは、「ぐっすりねむっている真夜中に」起こされ、ついていかなければならないのである。語り手の嘆きは、こうしたじさまを気の毒に思ってのことかもしれない。
 確かに自分にも夜中トイレに行くことは怖かった記憶はある。まして、豆太の生きる時代や場所の深い闇を考えると、その恐怖も大きなものだったと思える。しかし、いつもいつもじさまを起こしてついていってもらうとは…、そんな気もしてくる。

 語り手が嘆くわけは。もう一つある。

   豆太のおとうだって、くまと組みうちして、頭をぶっさかれて死んだほどのきも助だったし、じさまだって六十四の今、まだ青じしをおっかけて、きもをひやすような岩から岩へのとびうつりだって、みごとにやってのけるのだ。
   それなのに、どうして豆太だけが、こんなにおくびょうなのか――。

 語り手は、猟師としてのおとうやじさまを賞賛する。おとうの「きも助」(教科書注「きもったまの太い、勇気のある男」」)ぶりやじさま「みごと」さを語り、それなのに、子であり孫である豆太が…というわけである。

 こうして語り手が嘆く豆太の「おくびょう」の特別さには、よくよく注意しなければならない。
 「くまと組みうち」したおとうの死にざまは、確かに「きも助」のものだと言える。だが、それは、豆太にとって「きも助」だと賞賛や誇りの気持ちだけで受け止められることだろうか。自分の父がくまに「頭をぶっかされて死ん」でしまう。その残酷さ、そして喪失は、むしろ恐怖ではないだろうか。豆太は、まだ「五つ」なのである。
 作品に言及されていない母もまた失われた存在である。「五つ」の子には、父や母といった自分を守ってくれる存在は不可欠である。そうした存在の父や母の喪失は、まだ「五つ」の豆太にとって、どれほど過酷あり、恐怖であったことだろう。
 じさまだけが、「五つ」の豆太にとって頼れる存在だった。そのじさまの猟師としての「みごと」ささえ、豆太にとっては、心配の種となっただろう。おとうの「きも助」ぶりが死につながった失敗を知っているのだ。じさまの失敗を恐れる気持ちももっていたはずである。じさまは、もう「六十四」なのだ。

 真夜中、峠からふもとまで半道(2㎞弱)もある、霜の降りた道をはだしで駆け下りさせた、「大好きなじさまの死んでしまう」ことの豆太の恐怖は、まだ「五つ」にしてすでに父母をなくしてしまった豆太の「おくびょう」の底にある恐怖にまっすぐ結びつくものであった。

2014年8月8日金曜日

「モチモチの木」を読む③

豆太の《恐怖》①

中心人物・豆太が《おくびょう》から《勇気》へと最も大きく変容すると思われる場面においても、やはり豆太はこわがっていた。「大好きなじさまが死んでしまう」ことへの恐怖心があったのだ。
その恐怖は、豆太にとって最大のものであり、読み手に《おくびょうなやつ=豆太》の恐怖の本質を明かす鍵となるものである。その気づきは、作品の設定を読み直すことを促す。

【時】
物語全体の【時】の設定は、明示されていないが「昔」としておいていいだろう。「今」のように電気などない時代だ。
 出来事が起きるのは、「しもつき二十日」。その日の昼(夜以前)、夜、次の朝、その晩と出来事は展開される。
「夜」と「昼」の対比も重要であろう。

【場】
「とうげのりょうし小屋」に豆太とじさまは暮らしている。
「しもつき二十日」の夜、豆太は峠をふもとまで下り戻ってくる。

【人物】
・中心人物=豆太(5歳)
・重要人物=じさま(64歳、猟師)
・その他=医者様
・言及される人物として重要なのは「おとう」(「きも助」、すでに死んでいる)
・そして重要な事物として「モチモチの木」(豆太の恐怖の対象。勇気の証ともなる。)

【状況】
 ・豆太、じさまとの二人暮らし。(おとうは死んでいる。母については言及なし。)
 ・「小屋」「一枚しかないふとん」→貧しい。

 
 「おくびょうなやつ」豆太が恐怖するのは、夜の「モチモチの木」である。その様子は、次のように語られる。

 (せっちんは表にあるし、)表には大きなモチモチの木がつっ立って、空いっぱいのかみの毛をバサバサとふるって、両手を「わあっ!」と上げる…
 

 (夜になると、豆太は、もうだめなんだ。)木がおこって、両手で、「お化けえ!」って、上からおどかすんだ。

 
 これが豆太の恐怖する「モチモチの木」の姿である。
「モチモチの木」が豆太に恐怖心を与えるのではなく、豆太の恐怖心が「モチモチの木」を擬人化(擬化け物化?)してしまうのだ。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」である。と大人なら言うだろう。「全く、豆太ほどおくびょうなやつはいない」と語るその見方は、そうしたものだろう。語り手はそうした見方を促しつつ、「もう五つにもなったんだから」と嘆いてみせる。
 だが、「もう五つ」と言われ、「そうだよな」とうなずいていいのだろうか。「まだ五つ」なのではないのか。
 場所は、夜中の峠である。電気も灯りもない昔である。また、猟を営むものが住む峠なのである。人の気配などないだろう。しかも小屋という内から外へ出ていかなければならない。闇は深い。そうした闇の中で、五つの子が「モチモチの木」のおどされて不思議はない。
 語り手は、巧妙に豆太の《おくびょう》さを語っている。「もう五つにもなって」と嘆いてみせ、ことさら強調することによって、「まだ五つ」であることを隠しながらも同時に気づきを促すのである。わざとらしい嘆きと大人らしい見方にうかうかと同調しなければ、「本当は自分だって五つの頃は、夜中に目覚めてトイレに行くことが怖かった」、そうした気づきが促されるはずなのである。

(斎藤隆介の作品は民話の体裁をとった創作童話だというが、その語り口は実に巧妙な仕掛けがあるようだ。これについても後日書けたらと思う。)

〈つづく〉

2014年8月7日木曜日

「モチモチの木」を読む②


作品の冒頭、「全く、豆太ほどおくびょうなやつはいない。」といきなり語られる。さっそく《豆太=おくびょう》と印象づけられる。
「もう五つになった」のに、「夜中には、じさまについてってもらわないと、一人じゃしょうべんもできない」という。表のせっちんに行くと、「モチモチの木」が「わあっ!」とおどすらしい。
 
そんなおくびょうな豆太が、はらいたで苦しむじさまのため、真夜中、医者様を呼びに峠の坂道を駆け下りる。おくびょうな豆太が勇気を出す。大きな変化である。
 その姿は、次のように語られている。


外はすごい星で、月も出ていた。とうげの下りの坂道は一面の真っ白いしもで、雪みたいだった。しもが足にかみついた。足からは血が出た。豆太はなきなき走った。いたくて、寒くて、こわかったからなあ。
 でも、大すきなじさまの死んじまうほうが、もっとこわかったから、なきなきふもとの医者様へ走った。
 

これは、確かに《勇気》ある姿かもしれない。しかし、豆太が《恐怖》を感じなくなったのではない。
 いつも夜に「モチモチの木」が「空いっぱいのかみの毛をバサバサとふるって」おどすように、この夜も「しもが足にかみついた」のである。痛さも寒さも恐怖心とないまぜになっている。
 そして、もっとこわいものがあった。「大好きなじさまが死んじまう」ことだ。
 ここで豆太を突き動かしたのは、いつもと同じ、いやそれ以上の恐怖だった。《勇気》という言葉によって、豆太の《恐怖》を見逃してはいけない。

2014年8月6日水曜日

「モチモチの木」を読む①

 8月4日から「全国国語授業研究会」、「基幹学力研究会全国大会」に参加しています。
 そこで、「モチモチの木」の授業を見ました。そして、二瓶先生の『お母さんと一緒の読解力教室』という本を買い読みました。そこで、触発され、考えてみようと思ったのが、「モチモチの木」の読みのことでした。
 とりあえず、書いてみたところまで。
 
 
 
「モチモチの木」のあらすじは、こうだ。

 おくびょうな豆太は、夜、表にあるせっちんに一人ではいけない。大きなモチモチの木が怖いのである。寝ているじさまを起こし、ついていってもらわなければならない。
 しもつきの二十日の夜、モチモチの木にひがともる。勇気のある一人の子供だけが見ることができるのだ、とじさまは豆太に話す。
 その夜、じさまがはらいたで苦しむ。豆太は、一人で夜道をかけ、お医者様を呼びに行く。その帰り、モチモチの木にひがともるのを豆太は見る。
 でも、じさまが元気になったそのばんから、豆太はしょうべんにじさまを起こす。
 

 何かが大きく変わるのは、「しもつき二十日の夜」である。その場面で、何が、どのように、どうして変わるのか。
 何が変わったのか。それは、もちろん豆太である。
 どのように変わったのか。おくびょうな子供から勇気のある子供へと変わる。
 どうして変わったのか。じさまを助けたかったからである。
 と、読む。「おくびょう」と「勇気」という枠組みでつい読んでしまう。
 だが、物語の終わり、豆太は、じさまが元気になると、やっぱりしょんべんにじさまを起こす。
 にやりと笑える最後である。
 その笑いは、さらに作品の読みへと誘う。「おくびょう」から「勇気」へという常識的な読みを笑っているように思えるからだ。


 物語を何事かの変容ととらえ、その変容のから物語の主題をとらえる方法がある。二瓶先生の「クライマックス読解法」もそのひとつだろう。
 方法は、どのような作品にも通用できる一般性を求める。だが、作品は、その作品自身を読めと誘う。もっと言葉を読めと誘う。
 二瓶先生の方法の「きも」は、そのような作品の誘いに敏感になることではないか、と思う。二瓶先生は、「見えないものが見えるようする」のが授業であると言う。「見えないものが見えるようになる」ためには、そうした敏感さが必要なのだと思う。
 だが、方法によって、見えた気になり、読んだ気になってしまいがちである。そして、作品の言葉から目は離れていく。そして、方法に守られた自分の見方を自分の言葉で語ってしまう。
 二瓶先生の方法は、作品の言葉から自分の言葉を引き出す武器である。だが、それは自分の見方、自分の読みを守り固定するものではない。作品の言葉をよりよく見るための武器であり、それによって自分の見方、自分の読みを破壊し更新するための武器なのである。
 作品が自分に語りかけてくる、と二瓶先生は言う。作品が語りかけてくることに敏感でなければならない。
 

「モチモチの木」の最後に誘われた笑いは、見えていない自分の読みに気づかせるものだった。作品はもっと語りたがっているのだ。
 目を凝らすと、作品の言葉が立ち上がり、立ち上がった言葉たちが手を取り合う。耳を澄ますと、作品の言葉は声を発し、言葉たちの声は響き合う、はずなのだ。