11月12日、学習会の前日の11日、二瓶先生との懇親会を予定しています。
先生の空港到着が9時なのでそれ以降となりますが、参加してみませんか。
興味のある方は支部メールでご連絡ください。
2011年11月3日木曜日
2011年10月9日日曜日
二瓶先生の『物語授業づくり一日講座』、『国語授業のつくり方』を読んで
以前、「教育研究」の二瓶先生の論文『物語の「読みの力」再考』を読んだ感想を書いた。
文学作品の読みの理論を再構成し実践化する先生の仕事の価値について書いたように思う。
今日、『物語授業づくり一日講座』、『国語授業のつくり方』を読んで、先生の言う「再考」の意味について、思い至らなかった点が見えてきた。
先生は、過去の文学作品の読みの理論を子供たちに読みの力をつけていくものとして再構成し、自らの国語教室の実践において追求してきた。
研究会で二瓶学級を訪れた私たちは、その子供たちの力に圧倒され、「夢の国語教室」がそこにあると実感した。
その一方で、私の教室は・・・と思わざるをえなかった。
二瓶先生は、「再考」によって、これまでの読みの理論をさらに精錬している。そして、その授業づくりの方法をいっそう明確に構造化し重点化している。
それは、なんのためか?
先生の夢を私たちの教室に拡大するために、なのだと思う。
『説明文一日講座』、『物語授業づくり一日講座』、『国語授業のつくり方』、この3つの本は、私たちに夢の国語教室追求の確かな手がかりを与えてくれる。
小手先ではない確かな理論的な見通しを持った、私たちにも可能な国語の授業づくりの方法を示してくれているのだ。
・・・・・・『国語授業のつくり方』の最後の方、子供たちのエピソードに、2度ほど泣いてしまいました。
研究会で会った子たちなのです。老いて涙もろくもなってるのです。
二瓶先生の語り口に、 やられたな、と思いましたね。
私たちにとって、今の二瓶先生の理論と実践は、とっても価値があるものだと思います。
ぜひ、本を読んでみてください。
そして、実際に先生の話を聞くと、やる気が出ると思います。
ぜひ、学習会に参加してください。
そしてそして、できたら二瓶学級の子供たち会ってみてください。
夢とは何かがわかります。
文学作品の読みの理論を再構成し実践化する先生の仕事の価値について書いたように思う。
今日、『物語授業づくり一日講座』、『国語授業のつくり方』を読んで、先生の言う「再考」の意味について、思い至らなかった点が見えてきた。
先生は、過去の文学作品の読みの理論を子供たちに読みの力をつけていくものとして再構成し、自らの国語教室の実践において追求してきた。
研究会で二瓶学級を訪れた私たちは、その子供たちの力に圧倒され、「夢の国語教室」がそこにあると実感した。
その一方で、私の教室は・・・と思わざるをえなかった。
二瓶先生は、「再考」によって、これまでの読みの理論をさらに精錬している。そして、その授業づくりの方法をいっそう明確に構造化し重点化している。
それは、なんのためか?
先生の夢を私たちの教室に拡大するために、なのだと思う。
『説明文一日講座』、『物語授業づくり一日講座』、『国語授業のつくり方』、この3つの本は、私たちに夢の国語教室追求の確かな手がかりを与えてくれる。
小手先ではない確かな理論的な見通しを持った、私たちにも可能な国語の授業づくりの方法を示してくれているのだ。
・・・・・・『国語授業のつくり方』の最後の方、子供たちのエピソードに、2度ほど泣いてしまいました。
研究会で会った子たちなのです。老いて涙もろくもなってるのです。
二瓶先生の語り口に、 やられたな、と思いましたね。
私たちにとって、今の二瓶先生の理論と実践は、とっても価値があるものだと思います。
ぜひ、本を読んでみてください。
そして、実際に先生の話を聞くと、やる気が出ると思います。
ぜひ、学習会に参加してください。
そしてそして、できたら二瓶学級の子供たち会ってみてください。
夢とは何かがわかります。
二瓶先生をお招きして支部学習会を開催します
恒例の二瓶先生をお招きしての初等教育研究会胆振支部の学習会を下記の通り実施します。
1. 期 日 平成23年11月12日(土)
2. 時 間 午前9時30分~11時45分
3. 場 所 苫小牧市立大成小学校(苫小牧市大成町2丁目3番2号)
4. 内 容 二瓶先生による 国語の授業 及び 実践講座
・授業・・・3年生(物語)
・講座「物語の授業づくりについて」
5. 講 師 二瓶 弘行 氏 (筑波大学附属小学校)
6. 日 程
9:00 ~ 9:30 受 付
9:30 ~ 10:15 公開授業
10:30 ~ 11:45 実践講座
7. 参加費 無 料
会員の皆様、苫小牧・室蘭市内の各小学校宛に案内文書を配布します。
昨年は、出版されたばかりの二瓶先生の『説明文一日講座』(ぶんけい)と連動した講座を開催しました。『説明文一日講座』は、これまでの数ある説明文に関する本の中でも、私たち小学校教師にとっては、魅力ある最も優れたもののひとつではないか、と思います。講座では、二瓶先生の実際のお話によって、その魅力を十分に感じてもらえたのではないでしょうか。
今年の夏は、『物語授業づくり一日講座』(ぶんけい)が出版されました。今回の学習会では、それと連動して企画されました。
1. 期 日 平成23年11月12日(土)
2. 時 間 午前9時30分~11時45分
3. 場 所 苫小牧市立大成小学校(苫小牧市大成町2丁目3番2号)
4. 内 容 二瓶先生による 国語の授業 及び 実践講座
・授業・・・3年生(物語)
・講座「物語の授業づくりについて」
5. 講 師 二瓶 弘行 氏 (筑波大学附属小学校)
6. 日 程
9:00 ~ 9:30 受 付
9:30 ~ 10:15 公開授業
10:30 ~ 11:45 実践講座
7. 参加費 無 料
会員の皆様、苫小牧・室蘭市内の各小学校宛に案内文書を配布します。
昨年は、出版されたばかりの二瓶先生の『説明文一日講座』(ぶんけい)と連動した講座を開催しました。『説明文一日講座』は、これまでの数ある説明文に関する本の中でも、私たち小学校教師にとっては、魅力ある最も優れたもののひとつではないか、と思います。講座では、二瓶先生の実際のお話によって、その魅力を十分に感じてもらえたのではないでしょうか。
今年の夏は、『物語授業づくり一日講座』(ぶんけい)が出版されました。今回の学習会では、それと連動して企画されました。
2011年4月10日日曜日
ちょっと古いのですが
asahi.com 花まる先生 「東京・筑波大付属小学校 二瓶弘行さん 伝えて知る言葉の力」
asahi.com 花まる先生 「東京・筑波大付属小学校 二瓶弘行さん 伝えて知る言葉の力」
http://www.asahi.com/edu/student/teacher/TKY201001100095.html
ぜひご一読を。
2011年2月19日土曜日
終わりました
17、18日の初等教育研修会、今日19日の基幹学力研究会に参加。
見た授業は、国語の青山先生、白石先生、青木先生の授業、算数の山本先生の授業。
このほか、国語部会の研究協議会や算数の田中先生の講演、ワークショップ。
その中には、本支部の会員であり、基幹学力の世話人である小林先生のワークショップもありました。(すばらしいものでした。)
支部からの参加者は、5名。
みんなが楽しみにしていた二瓶先生の授業は、残念ながら中止となってしまいました。
体調不良とのこと。
私が休職していた間、先生には、支部のため、たいへんお世話になりました。
心配でなりませんでしたが、大事ではないと聞き、少し安心しました。
私たちが何度も東京まで足を運びこの研究会に来るのは、二瓶先生の「夢の国語教室」を見るためです。
夢を実現する二瓶学級の子どもたちに再会するためです。
もうすぐ卒業の子どもたちは、この3年間で新しい夢を実現していたに違いありません。
その子たちと二度と会うことができないと思うと、切なくなります。
でも、この切なさは、二瓶学級の3年間最後の授業を見たときにいつも感じたものでした。
そして、先生と新しい子どもたちとの新しい夢の始まりに胸がときめいたのもいつものことだったな、と。
見た授業は、国語の青山先生、白石先生、青木先生の授業、算数の山本先生の授業。
このほか、国語部会の研究協議会や算数の田中先生の講演、ワークショップ。
その中には、本支部の会員であり、基幹学力の世話人である小林先生のワークショップもありました。(すばらしいものでした。)
支部からの参加者は、5名。
みんなが楽しみにしていた二瓶先生の授業は、残念ながら中止となってしまいました。
体調不良とのこと。
私が休職していた間、先生には、支部のため、たいへんお世話になりました。
心配でなりませんでしたが、大事ではないと聞き、少し安心しました。
私たちが何度も東京まで足を運びこの研究会に来るのは、二瓶先生の「夢の国語教室」を見るためです。
夢を実現する二瓶学級の子どもたちに再会するためです。
もうすぐ卒業の子どもたちは、この3年間で新しい夢を実現していたに違いありません。
その子たちと二度と会うことができないと思うと、切なくなります。
でも、この切なさは、二瓶学級の3年間最後の授業を見たときにいつも感じたものでした。
そして、先生と新しい子どもたちとの新しい夢の始まりに胸がときめいたのもいつものことだったな、と。
2011年2月18日金曜日
青山由紀先生の授業を見る③
どのようなことばの力をどのような学習活動・言語活動で活用させ習得させていくのか。つまり、「何を」「どのように」使わせ身に付けさせていくのか。
どのようなことばの力をどのような学習活動・言語活動で活用させ習得させていくのか。つまり、「何を」「どのように」使わせ身に付けさせていくのか。
昨日は、「何を」について、青山先生の授業から学んだことを書いた。
今日は、「どのように」について書く。
ずっと前、青山先生のワークショップで、総合(生活科)での「自分の誕生・成長」についての単元の話を聞き、いたく感銘を受けた。
「どのように」単元を、そして学習活動を構想するか、自分には全くそれができなかった。
先生の構想を聞き、自分には及びもつかないセンスのよさ、実力に驚き感動した。
先生の構想を聞き、自分には及びもつかないセンスのよさ、実力に驚き感動した。
今回の授業でも、やはり先生の単元や学習活動の構想に素晴らしいと思った。
しかし、その素晴らしさを自分は把握しきれず、うまく説明できない。
断片的になってしまうが、自分がいくらかわかったことを書き留めておく。
◆学習材の提示について
青山先生は、学習材となる文章を、二通りの仕方で子どもたちに与えている。
ひとつは、教科書である。ここには、挿絵がある。
もうひとつは、ライオンの赤ちゃんの意味段落の下にシマウマの赤ちゃんの意味段落を並べたプリントである。
授業後、先生の説明を聞き、挿絵の必要性についてあらためて認識させられた。
例えば、子どもたちは、ライオンにはたてがみがあるというイメージを持っていて、多くの子は母親にもそれがあると思っているらしい。そうした誤ったイメージを正すためには、挿絵が必要なのだ。
文章だけではイメージできないことを理解したり、文章の内容を挿絵と結びつけてより確かに理解したりするために、低学年では特に挿絵は重要なのである。
こうした教科書での内容的な理解の土台の上で、ふたつめの学習材が提示された。
上下に並んだ文章は、おのずと比較を促し、「述べ方」の特徴に気付かせる。
子どもたちは、両者の同じ書き方、同じ言葉に気付くだろう。そうすると違う言葉も目に入ってくる。
このように学習材の工夫が学習活動を促すのである。
◆単元の構想について
今回の授業の単元構想の概略は次のようになっている。
第1次 教科書教材「どうぶつの赤ちゃん」を読む。
第2次 「どうぶつ赤ちゃんクイズ」を作って、交流する。
第3次 「どうぶつの赤ちゃん」図鑑を作る。
第1次の学習内容に、「単元の見通しをもつ(第2次までの活動の終末を理解する)」とある。
子どもたちに学習の見通しを与える、これは学習指導要領でも強調されていることである。
ただ僕には、(第2次までの活動の終末を理解する)の部分がぴんとこなかった。
授業後、これに関わる先生の話を聞き、目から鱗であった。
教師が単元の最終に「書く活動」を用意しているからといって、必ず子どもたちもそこまで見通さなければならないのか。
書く活動を最終目的として示されると、書くことが苦手な子は学習への意欲が持てなくなることがある。
そうした場合、学習が進み、題材についての子供の興味が醸成され、書く活動の準備が整う間をとる。その上で書く活動へ移行するのがよい。
ただ闇雲に子どもたちに見通しを与えればいいわけではないのだ。学習の見通しをもつことの意義は、子どもたちが主体的に学ぶためである。
そのためには、教師が学び手としての子どもたちをしっかりと理解し、それに基づいて単元を構想しなければならないのだ。
◆学習活動について
本時では、教師が教材文の一部から作った問題文を出し、それがどの赤ちゃんのことかを子どもたちに答えさせるという活動を行った。
例えば、「生まれてしばらくすると、自分で草も食べるようになる」という問題があった。
この文には、「シマウマ」にも「カンガルー」にも該当してしまう。
子どもたちは、おのずと問題文の不備を考える。
そして、「しばらく」ではなく、はっきり時を特定できる言葉でなければならないと気が付く。
こうした活動は、教師が意図する「ことばの力」をおのずと使わせる言語活動になっている。
また、学び手への配慮もそこにはある。
単元では子ども自身が問題を作る活動が用意されているのだが、子ども自身が間違いや失敗を指摘されることは、子どもの意欲をそこなう。
その一方で、教師の間違いや失敗を指摘することには、子どもたちは意欲を燃やす。
子どもたちの意欲を掻きたてながら、子ども自身の活動への準備を進めているのである。
まだまだ書ききれないことがある。
今の自分には咀嚼しきれない。
でも、最後にひとつだけ書いておきたいことがある。
まだまだ書ききれないことがある。
今の自分には咀嚼しきれない。
でも、最後にひとつだけ書いておきたいことがある。
授業前、青山先生がちらりと「ほとんど崩壊状態」というような言葉をもらしていた。
その言葉の真意は、僕にはわからない。
そして、実際の授業がその言葉通りであったのか、僕にはわからない。
もし先生の構想の実現に問題が生じたとすると、その要因はマイナスのものではないのだと思う。
多くの子どもたちが、単元の活動を自発的に先取りしていた。
この日の授業で先生が用意した自作の「パンダの赤ちゃん」のリライトと同様の文章を書いてきた子もいた。
子どもたちは、先生の構想を超え出していたのかもしれない。
もし先生の構想や授業に失敗があったとすると、それはむしろうれしい誤算なのだと思う。
そして、それは、子どもたちの学びを中心に据える青山先生の授業の本質にとっては、まさに成功なのかもしれない。
2011年2月17日木曜日
青山由紀先生の授業を見る②
何を使わせ身に付けさせるのか?
といえば、それは各教科における「基礎的・基本的な知識・技能」とされている。
学習指導要領に示された国語科、低学年の説明文の読みに関する指導事項は、以下の通り。
時間的な順序や事柄の順序などを考えながら内容の大体を読むこと。
これだけでは、使いものにならない。身についたかどうかもはっきりしない。
これをさらに具体化しなければならない。
青山先生は、単元の目標を以下のように設定した。
・「問い」と「答え」の関係に着目しながら、内容を読む。
・時間や順序を表す言葉に着目して、複数の動物の赤ちゃんの特徴や違いを読み取る。
・説明の仕方(述べ方)の工夫に気付く。
・取り上げられている動物の関係を考える。(事例の選択)
・説明文を多読する。
・自分の好きな「どうぶつの赤ちゃん」について調べ、述べ方を使って説明文を書く。
単元計画では、学習材に即してさらに具体化された内容が書かれている。
・主語連鎖に気付き、意味段落を意識して読む。
・共通の観点について「ちがい」が述べられていることに気付き、内容を読み取る。
・なぜ、ライオンとしまうまの赤ちゃんが取り上げられているのか(事例の選択意図)を考える。
学習材「どうぶつの赤ちゃん」は、はじめに問いの意味段落があり、続いて「ライオンの赤ちゃん」「シマウマの赤ちゃん」「カンガルーの赤ちゃん」と答えとなる事例の意味段落が列挙されていく。
そして、それぞれの意味段落は、共通の観点で記述された3つの形式段落で構成されている。
1年生の典型的な説明文である。
こうした学習材の特性から、使えて身に付く基礎的・基本的な「ことばの力」をいかに取り出すか、これが重要なのだ。
例えば、主語連鎖に気付く、ということについて。
「ライオンの赤ちゃん」の意味段落では、3つの形式段落がそれぞれ「ライオンの赤ちゃん」という主語で始まる。
こうした主語連鎖に気付くことは、この3つの形式段落が「ライオンの赤ちゃん」という話題について述べられたひとまとまりの文章であることがわかることであり、「内容の大体」をとらえる第1歩となる。
こうした主語連鎖に気付くことは、この3つの形式段落が「ライオンの赤ちゃん」という話題について述べられたひとまとまりの文章であることがわかることであり、「内容の大体」をとらえる第1歩となる。
さらに、こうした言葉の繰り返しへの気付きは、他の事例の意味段落との比較において、同じ言葉(観点を示す)、異なる言葉(事例の特徴を示す)への気付き、すなわち「共通の観点について『ちがい』が述べられていることに気付く」ことにもつながるだろう。
ここまでくれば、「内容を読み取る」ことにもなるだろうし、対比という思考を促し、それは「事例の選択」を考える土台にもなる。
このように具体化された「ことばの力」は、有機的に関連づけられ使える力となっている。スキル学習的に主語連鎖を取り出すだけでは、使える力とはならない。
授業後の説明会で、「事例の選択」について先生が語った。
「事例の選択」について考えることは主に中学年前半の課題であり、その「順序」について考えることは中学年後半の課題である。
さらに、高学年では事例によって抽象的な主張に説得力を持たせる効果を考える課題へと発展していく。
具体化された「ことばの力」が横の関連だけでなく、学年段階に即した縦の関連でも構想されているのである。
何を=どのような「ことばの力」を獲得させていくのか。
学習材に即して、具体的に取り出せなければならない。
それぞれが有機的に関連し合い、使え、発展する力でなければならない。
青山由紀先生の授業を見る①
筑波大学附属小学校「初等教育研修会・学習公開」第1日目。
青山由紀先生の「『どうぶつの赤ちゃん』博士になろう」の授業を見る。
説明文の「活用」する読みを提案する授業だった。
新しい学習指導要領における教科の授業のキーワードとして「習得」と「活用」が注目されている。
それは、ほぼ以下のような内容である。
各教科では、基礎的・基本的な知識・技能を「習得」させ、それらを「活用」した学習活動を行い、総合的な学習の時間における「探求」へと発展させる必要がある。
これらの学習活動は、相互に関連しあったものであり、截然と分類されるものではなく、一つの方向に進むものでもない。
こうした「新しい」言説が宣布され、すでに様々な場で様々に取りざたされている。
こうした流行は毎度のことではあるが、根にある問題は決して「新しい」ものとは思えない。
身に付かず(「習得」できず)、使えない(「活用」できない)学力ではだめではないか、これは、ずうっと問題になってきたことである。
「習得」と「活用」に関して、今回の授業では、青山先生は、次のような主張、提案を行っている。
「習得」という土台を築かなければ「活用」できないということはない。むしろ「習得」させるために、「活用」場面を積極的に設定する必要があると考える。それこそが、スパイラルな学びにつながる。
本単元では、「低学年における説明文を読む」学習において、様々なタイプの「活用する姿」を仕組んだ単元構想を提案する。
要するに、使わせて身に付けさせなければ、ということなんだと思う。
今回の青山先生の授業は、「どのように」使わせて身につけさせるか、を提案するもので、大いに学ばせてもらったのだが、さらに「何を」についてもとても啓発されたのである。
何をどのように使わせ身に付けさせるのか、それを具体化する先生の力量にまいってしまった。
2011年2月10日木曜日
二瓶弘行先生の「再考」の意味
「初等教育」2月号、二瓶弘行先生の「物語の『読みの力』再考」を読んだ。
僕たち(二瓶先生は僕より2歳上です)が教師になった頃、国語の研究授業と言えば、そのほとんどが物語の授業であった。
そうした動向の背景には、いくつもの文学作品の読みの理論が存在していた。
法則化の台頭とともに分析批評が脚光を浴び始めた頃である。
そして、大西忠治氏が独自の読みの理論を展開し、読み研が発足した時期でもあった。
それ以前に、教科研や文芸研、一読総合法などの理論がすでに確固たるものとしてあった。
これらは、それぞれに体系化された大きな理論であった。
その後、学習指導要領における文学作品の扱いはどんどん軽くなり、現場での関心もそれに連動していった、ように思う。
70年代まで持続した文学作品の読みの理論構築への意志は、90年代にはついえてしまった、ように思う。
二瓶先生の教室をたずねると、教室の壁面にずらりと並んだ読みの学習用語のカードに目を奪われる。
黄ばんだ地に変色した文字のカードがある。二瓶先生が学んだ大理論から借りてきた用語で長年の実践の中で生き残ったものだ。
今、まさに試行し始めたらしい真新しいカードもある。
こうしたカードの背後に、二瓶先生の読みの理論を実践を通して「再考」し続ける姿が見える。
二瓶先生の授業は、常に理論の実践的「再考」であり、再構築である。
それは、その時々の新しいアイデアとは全く違う。
そこには理論構築の意志がある。
今回の先生の文章を読み、これまで「再考」し続けてきた先生の理論的営為がより確かな統一の段階をむかえたのだ、と思う。
2月の初等の学習公開では、「文学単元『自力読み・対話・語り』」が予告されている。
12年前、表現活動のオプションのひとつだった「語り」を学習の大きな柱に据え、その後「対話」を方法化し追求してきた学習活動についての理論的・実践的なまとめになるのかもしれない。
二瓶先生の読みの理論は「自力読みの観点」として体系化されているが、「自力読み・対話・語り」は二瓶先生独自の言語学習論である。
二瓶先生のすごさは、学習論が読みの理論の実践的な追求の中から生まれてきたことだ。
90年代以降、読みの理論への関心は薄れ、学習者や学習活動へと関心はむかった。
しかし、二瓶先生は、読みの理論を手放すことなく、それを学習者の読みの力の理論へと転換し、さらに読みの授業実践から読みの学習活動論を追求してきた。
支部の講座で二瓶先生は、「自力読み」について、教師が教材分析する力自体を子どもにつけていかなければならない、と語っていた。
しかし、気がつくと僕のまわりでは、読みの理論を知らない教師自身に読みの力が育っていないという状況があった。
先進校における子どもの読み、子供の活動を重視した研究授業において、すぐれた子どもの読みを教師が理解できないという喜劇さえ生じていた。
そのおかしさを感じていた頃に出会ったのが二瓶先生であった。
12年前、1年生の「いつでも会える」の授業を思い出す。
それからずっと二瓶先生の後を追ってきたが、この数年すっかり足を止めてしまった。
幸い、二瓶先生に出会った若い(その頃は、だが)先生たちが後を追ってくれていた。
来週、彼らと二瓶先生の授業を見る。
僕たち(二瓶先生は僕より2歳上です)が教師になった頃、国語の研究授業と言えば、そのほとんどが物語の授業であった。
そうした動向の背景には、いくつもの文学作品の読みの理論が存在していた。
法則化の台頭とともに分析批評が脚光を浴び始めた頃である。
そして、大西忠治氏が独自の読みの理論を展開し、読み研が発足した時期でもあった。
それ以前に、教科研や文芸研、一読総合法などの理論がすでに確固たるものとしてあった。
これらは、それぞれに体系化された大きな理論であった。
その後、学習指導要領における文学作品の扱いはどんどん軽くなり、現場での関心もそれに連動していった、ように思う。
70年代まで持続した文学作品の読みの理論構築への意志は、90年代にはついえてしまった、ように思う。
二瓶先生の教室をたずねると、教室の壁面にずらりと並んだ読みの学習用語のカードに目を奪われる。
黄ばんだ地に変色した文字のカードがある。二瓶先生が学んだ大理論から借りてきた用語で長年の実践の中で生き残ったものだ。
今、まさに試行し始めたらしい真新しいカードもある。
こうしたカードの背後に、二瓶先生の読みの理論を実践を通して「再考」し続ける姿が見える。
二瓶先生の授業は、常に理論の実践的「再考」であり、再構築である。
それは、その時々の新しいアイデアとは全く違う。
そこには理論構築の意志がある。
今回の先生の文章を読み、これまで「再考」し続けてきた先生の理論的営為がより確かな統一の段階をむかえたのだ、と思う。
2月の初等の学習公開では、「文学単元『自力読み・対話・語り』」が予告されている。
12年前、表現活動のオプションのひとつだった「語り」を学習の大きな柱に据え、その後「対話」を方法化し追求してきた学習活動についての理論的・実践的なまとめになるのかもしれない。
二瓶先生の読みの理論は「自力読みの観点」として体系化されているが、「自力読み・対話・語り」は二瓶先生独自の言語学習論である。
二瓶先生のすごさは、学習論が読みの理論の実践的な追求の中から生まれてきたことだ。
90年代以降、読みの理論への関心は薄れ、学習者や学習活動へと関心はむかった。
しかし、二瓶先生は、読みの理論を手放すことなく、それを学習者の読みの力の理論へと転換し、さらに読みの授業実践から読みの学習活動論を追求してきた。
支部の講座で二瓶先生は、「自力読み」について、教師が教材分析する力自体を子どもにつけていかなければならない、と語っていた。
しかし、気がつくと僕のまわりでは、読みの理論を知らない教師自身に読みの力が育っていないという状況があった。
先進校における子どもの読み、子供の活動を重視した研究授業において、すぐれた子どもの読みを教師が理解できないという喜劇さえ生じていた。
そのおかしさを感じていた頃に出会ったのが二瓶先生であった。
12年前、1年生の「いつでも会える」の授業を思い出す。
それからずっと二瓶先生の後を追ってきたが、この数年すっかり足を止めてしまった。
幸い、二瓶先生に出会った若い(その頃は、だが)先生たちが後を追ってくれていた。
来週、彼らと二瓶先生の授業を見る。
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