一つの作品がいくつかの部分(=場面)によって構成されているのは明らかなことだが、実際に作品の文章を場面に区切ろうとすると、なかなかすっきりとはいかない。
二瓶先生は、「いつ(時)」、「どこ(場)」、「だれ(人物)」を観点として場面分けをせよ、と述べている。
「ヒロシマのうた」は、「わたし」が語り手であり、一人称視点の作品である。
「わたし」は、原爆投下直後の広島で一人の赤ちゃんと出会う。その子をめぐる15年間の思い出を「わたし」が回想する、という形で作品は語られていく。
全体的な設定は、次のようになっている。
《時》
・原爆投下直後…昭和20年
・戦争が終わって7年目…昭和27年
・今年(15年目)の夏…昭和35年
《場》
・広島
《人物》
・わたし…語り手
・ミ子=ヒロ子
・ミ子のお母さん(生みの母)
・ヒロ子のお母さん(育ての母)
※ご主人 他
「わたし」がミ子=ヒロ子と直接会うのは3度である。原爆投下直後の出会い、その7年後の夏の再会、そして15年後の夏の再々会である。
その間の出来事や状況については、語り手の直接的な語りによってではなく、手紙などによって間接的に読み手に伝えられる。人物の関係も込み入っている。
こうした作品の特徴が場面分けを難しくしているように思う。
しかし、3つの《時》によって、作品が大きく3つの部分に分けられることは明らかである。
まずは、作品全体を大きく3つの部分に分け、それぞれをさらに場面に分けていくことにする。
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