「初等教育」誌に「物語の『読みの力』再考」が掲載されてから3年。その間、『物語授業づくり一日講座』、『国語授業のつくり方』、『教材研究の条件』、『物語授業づくり入門編』と、物語の授業論に関する本が次々と発表されてきた。
以前書いたように、二瓶先生の<再考>とは、先生がこれまでずっと追求してきた物語の読みの理論の再構築であった。そして、それは、多くの教室に先生の理論と実践を広げていくためのものであった。
ここ数年発表された本の講座というスタイルは、まさにそうした意図にふさわしいものだった。
十五年ほども前だろうか。
私が初めて二瓶先生の授業を見たのは、「総合的な学習の時間」が新設され、みなが「総合」に関心を集中させていた頃だった。
その頃は、「総合」だけでなく教科においても、子供の主体的な学習活動の重視とともに、教師の役割として「支援」が強調されていた。
そして、その時の学習指導要領における国語科の改善では、特に「文学的な文章の詳細な読解」の授業が攻撃対象となっていた。「気持ち悪いほど人物の気持ちをほじくり返す」授業なんて馬鹿にされていた。
学習指導要領の改訂のたびに流行現象がおこる。流行は極端な方向に進みがちで、いつも喜劇がつきまとう。
子供の主体的な(?)学習活動だけの授業。支援しかしない教師。「気持ち悪いほど気持ちの読みを避けた」物語の授業。紙芝居づくりに読むこと以上に時間をかけた物語の授業。
その頃の流行語のひとつに「不易流行」という言葉があったが、「不易」を忘れて「流行」だけを追う喜劇が演じられていた。それによって、これまで多くの先輩教師たちによって積み上げられてきた「不易」へ向かう努力が忘れ去られていった。
私が出会った二瓶先生の授業は、「新しい」と感じさせるものであった。だが、それは、「流行」としての「新しさ」ではなく、多くの先輩教師たちが歩んできた道の一歩先にある「新しさ」だった。
私自身、喜劇とは無縁ではなかった。二瓶先生によって与えられたのは、自分もまた喜劇を演じているという自覚だった。
流行ばかりを追っていると失われるものがある。
私たち世代が先のような喜劇を演じ続けた間に、先輩教師たちが積み上げてきた「物語の読みの授業」についての理論的実践的な探求の歴史が失われてきた。このままでは、新しい世代は、そうした歴史的な財産にアクセスできなくなってしまう。
『物語の「自力読み」の力を獲得させよ』という二瓶先生の提案は、「不易流行」の歴史を新しい世代へ手渡していく試みなのである。
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