2014年8月30日土曜日

「モチモチの木」を読む⑦

 自然の中で 

 モチモチの木ってのはな、豆太がつけた名前だ。小屋のすぐ前に立っている。でっかいでっかい木だ。
 

 「とうげのりょうし小屋」での豆太とじさまの暮らしは、「りょうし」として命がけで生活の糧を得ながら、「一枚しかないふとん」で二人いっしょに眠るものである。二人の暮らしは、自然の中で、小さくつつましく営まれるものである。
 それに対して、「小屋のすぐ前」に立つモチモチの木は、「でっかいでっかい木」である。
 

 秋になると、茶色いぴかぴか光った実をいっぱいふり落としてくれる。その実をじさまが木うすでついて、石うすでひいて、こなにする。こなにしたやつををもちにこねあげて、ふかして食べると、ほっぺたが落ちそうなほどうまいんだ。
「やい、木い、モチモチの木い! 実い、落とせえ!」
なんて、片足で足ぶみして、いばってさいそくするくせに、夜になると、豆太は、もうだめなんだ。
「お化けえ!」
って上からおどかすんだ。夜のモチモチの木は、そっちを見ただけで、もうしょんべんなんか出なくなっちまう。
 
 

 物語の後半、医者様が語ったところによると「モチモチの木」とは、「トチの木」らしい。それを、豆太が「モチモチの木」と呼ぶのは、どうやらその木が「ほっぺた落ちそうなほどうまい」モチを与えてくれるかららしい。
 モチモチの木は、二つの顔を持っている。食べ物=生活の糧=恵みを与える昼の顔と恐怖を与える夜の顔である。
 豆太のおとうは、生活の糧を得るために「くまと組みうちして、頭をぶっさかれて死んだ」。生活の糧を与えるものであった「くま」が死を与えたのである。
 人に生を与えもし、死を与えもするのもの。光でもあり闇でもあるもの。昼の顔と夜の顔を持つもの。
 それが自然である。
 峠の猟師は、そうした自然の中で、自然とともに暮らすのである。その暮らしは小さく、自然はとてつもなく大きい。
 夜のモチモチの木を恐れる豆太は確かに幼く思える。また、昼のモチモチの木に「いばってさいそく」する豆太も同じように幼く思える。
 しかし、この二つの態度は、大きな自然の中で暮らす小さな人の存在の在り方に深く根差したものである。

2014年8月13日水曜日

「モチモチの木」を読む⑥

「しもつき二十日」の夜の豆太の変容

 夜のモチモチの木が怖くて、一人ではせっちに行けなかった豆太が、「しもつき二十日」の夜、たった一人で峠からふもとまでの半道ほどもある坂道を駆け下りる。
 確かにここには、大きな変容が認められることは最初に述べた。詳しく読んでいくと、自分が一読して受け取った《おくびょう》⇒《勇気》という図式はどうやら疑わしい。

 一読後の変容についての読みは、以下のようなものだった。
 ・何が変わったのか。豆太である。
 ・どのように変わったのか。おくびょうな子供から勇気のある子供へと変わる。
 ・どうして変わったのか。じさまを助けたかったからである。
 さらにていねいに「しもつき二十日」以前とその夜とを比べ、何がどのように変わったのかをとらえ返してみる。

 以前は、じさまといっしょに家の表(すぐ近くである)のせっちんまで出ていた。だが、この夜は、たった一人で峠からふもとまで半道もの距離を駆け下りた。何が大きく変わったかと言えば、そうした豆太の行動である。
 それは、《勇気》勇気を示す行動と言えるのか。この夜の豆太の行動の様子と気持ちを見よう。
 

(ひがともるモチモチの木を見ることをはじめからあきらめて)
ふとんにもぐりこむと、じさまのたばこくさいむねん中に鼻をおしつけて、よいの口か  らねてしまった。 

(真夜中、くまのうなり声を聞いて…父を殺したのがくまであった)
「じさまあっ!」
夢中でじさまにしがみつこうとしたが、じさまはいない。

(くまみたいに体を丸めてうなっているじさまを見て)
「じさまっ!」
こわくて、びっくらして、豆太はじさまにとびついた。けれども、じさまは、ころりとたたみにころげると、歯を食いしばって、ますますすごくうなるだけだった。

「医者様を、よばなくちゃ!」
豆太は、子犬みたいに体を丸めて表戸を体でふっとばして走り出した。ねまきのまんま。はだしで。半道もあるふもとまで……。
 

しもが足にかみついた。足からは血が出た。豆太はなきなき走った。いたくて、寒くて、こわかったからなあ。
でも、大すきなじさまの死んじまうほうがもっとこわかったから、なきなき医者様へ走った。

「医者様を、よばなくちゃ!」
豆太は、子犬みたいに体を丸めて表戸を体でふっとばして走り出した。ねまきのまんま。はだしで。半道もあるふもとまで……。
 

しもが足にかみついた。足からは血が出た。豆太はなきなき走った。いたくて、寒くて、こわかったからなあ。
でも、大すきなじさまの死んじまうほうがもっとこわかったから、なきなき医者様へ走った。

 「よいの口」からじさまの「むねん中へ鼻をおしつけて」寝てしまった豆太だが、「くまのうなり声」で目をさますと、「しがみつこうとした」じさまはいない。そして、はらいたで苦しみ体を丸めたじさまに「とびつい」てもその懐の中に入ることはできない。
  夜の二人の間にあった密着が引きはがされるような事態となったのである。
  ここで、豆太はただおろおろしたのではない。「医者様を、よばなくっちゃ」と判断し行動するのである。ただその行動の様子は、いかにも《勇気》あふれる様子とは言えない。
 「くまみたいに体を丸めてうなっていた」じさまに対して、豆太は、「子犬みたいに体を丸めて、表戸を体でふっとばして走りだした。ねまきのまんま。はだしで。半道もあるふもとの村まで……。」
 「こわくて、びっくらして」とびついてもじさまが応えてくれなかったことによって大きくなった恐怖に突き動かされ豆太は動き出す。それは《勇気》ある決断というよりも、衝動的なものと言えそうだ。
 小屋を出てすぐ表にあった「モチモチの木」については何も語られていない。「モチモチの木」の恐怖をはねのける《勇気》が示されるならば、当然語られてよさそうだ。それが語られていないのは、大慌てで飛び出した豆太の目に入らなかったためであろう。
 「半道」(2㎞弱)もある道のりで、「すごい月や星」、下り坂一面の「雪みたい」な「真っ白いしも」が豆太の目にも入っただろう。だが、たぶんはっきりと見えていたわけではないだろう。豆太は、ずっと「なきなき」走り続けるのだから。それは、「いたくて、寒くて、こわかったから」であり、なにより「大すきなじさまの死んでしまうのがこわかったから」なのである。
 たった一人で半道もある夜の峠道を駆け下りるという「五つ」らしからぬ豆太の行動も、闇雲に《恐怖》に突き動かされたものであって、「勇気のある子」にふさわしいものとは言えないだろう。
豆太が駆けた半道は、最も大きな恐怖を感じた時なのである。恐怖を乗り越えることが《勇気》だとするならば、ここでの豆太は恐怖を乗り越えたのではなく突き動かされたのであり、《勇気》とは言えないだろう。「大すきなじさまが死んでしまう」という恐怖が大きければ大きいほど、豆太は走りに走ったのである。
 ここで豆太が《勇気》を出したかどうか、《おくびょう》でなくなったかどうかは、豆太の変容の本質的な問題にはならないだろう。むしろ本質から目をそらせることになるように思う。それまでの物語の中で、それほど確かな内容をもって《勇気》は語られてはいない。ここで《勇気》を持ち出しても作品の言葉を離れて読みは空回りしてしまう気がする。
 夜「モチモチの木」を恐れ家の表に出ることさえ怖がっていた豆太が、峠からふもとの村まで半道の坂道を駆け下りた、こうした変容をもたらしたのは、「大すきなじさまが死んでしまうこと」の《恐怖》によってだった、そう読みたい。
 なぜ、そのことが豆太にとっては、それほど大きな恐怖なのか。
 これまでに見てきた「大すきなじさま」と豆太とがふれあう具体的な姿は、それを失うことの恐怖を納得させるだろう。
 また、峠の猟師小屋で父を亡くし老いたじさまと暮らす豆太の状況もそれに結びつくものであろう。
 「大好きなじさまが死んでしまう」ことは、豆太にとっては、自らを守る存在、自らを愛してくれる存在を失うことである。その喪失の恐怖の大きさを語ることは、その愛情の深さを語ることである。

2014年8月11日月曜日

「モチモチの木」を読む⑤

豆太が《そうしなくっちゃだめ》なこと

1・2の場面(出来事の前の設定・状況の説明部分ととらえておく。)で、語り手は、「夜中には、じさまについてってもらわないと、一人じゃしょうべんもできないのだ」と豆太の《おくびょう》を嘆いてみせ、豆太の《おくびょう》ぶりを事細かに語っていく。そして、最後には「みっともない」と嘆きつつも、「じさまは、かならずそうしてくれるんだ」、「豆太、そうしなくっちゃだめなんだ」と、「そうすること」が二人にとって必然であるかのように語るのである。
 じさまが「かならずそうしてくれる」わけを、語り手は、2の場面では、そうしなければ「あしたの朝、とこの中がこうずいになっちまうもんだから」だと説明する。それは、1の場面での「いっしょにねている一枚しかないふとんを、ぬらされちまうよりいいから」という説明の繰り返しである。
 こうした消極的な理由だけで、じさまは「かならずそうしてくれる」のか?
 1の場面では、「それに」と付け加えられるのが、次のような説明である。

とうげのりょうし小屋に、自分とたった二人でくらしている豆太がかわいそうで、かわいかったからだろうか。

語り手は「それに」と付け加えた上で「だろうか」と推量としてほのめかすように述べる。しかし、語り手の隠しつつ示すという語り口を考えると、これこそが、じさまが「かならずそうしてくれる」ことを説明する強い心情的な理由なのではと思われる。

「一枚しかないふとん」についても、それがぬらされては困ることを訴えつつ、二人の貧しい暮らしを示している。命を危険にさらす猟師としての生活も「一枚のふとん」で「いっしょに」眠ることを維持するのが精いっぱいなのだ。
猟師としての父の死は、そうした生活にとっては大きな打撃だったに違いない。生活する上の影響だけではない。まだ「五つ」の豆太の心への打撃を思うと、じさまの「かわいそう」というの心情は当然に思える。心への打撃は、豆太だけのことではない。じさまにとっても、それは同じなのだ。豆太の父とは、じさまにとっては息子である。「かわいい」わが子なのである。亡くしたわが子の息子が「かわいい」のも当然のことであろう。
 「一枚しかないふとん」に、そうした豆太とじさまがぴったりと寄り添い「いっしょに」眠るのである。

じさまは、ぐっすりねむっている真夜中に、豆太が、
 「じさまあ。」
 って、どんなに小さな声で言っても、
 「しょんべんか。」
 と、すぐ目をさましてくれる。

じさまは、「ぐっすりねむっている真夜中に」もかかわらず、「どんなに小さな声」でも「すぐに」豆太に応える。
そして、じさまは、豆太の小さな体に自らをぴったりと寄り添わせるように、「しゃがんだひざの中に豆太をかかえて」、言う。

「ああ、いい夜だ。星に手がとどきそうだ。おくやまじゃあ、しかやくまめらが、鼻ぢょうちん出して、ねっこけてやがるべ。それ、しいいっ。」

「いい夜だ。星に手がとどきそうだ。」、そう言って、夜の闇の怖さを紛らせ、「モチモチの木」の向こうにある「星」の光に豆太の視線をつなごうとしているようだ。
そして、猟師にとっては、生活の糧であるとともに命を危険にさらす存在でもある、じさまが「おっかける」「しか」も、おとうを「ぶっころした」「くま」も、今は「おくやま」で「ねっこけてやがる」からと安心させようとしているようである。
 このように猟師として峠に「たった二人でくらし」ているじさまと豆太がぴったりと寄り添うその姿は、じさまが「かならずそうしてくれ」、豆太が「そうしなくちゃだめ」だとという二人にとっての必然性を納得させる。
  
 

 その必然性が破られるのが「しもつき二十日」の夜の事件なのである。
その日の宵、豆太は、「ふとんにもぐりこむと、じさまのたばこくさいむねん中に鼻をおしつけて」眠る。いつものように、あるいはいつも以上にじさまに接触を求めたのである。
ところが、真夜中、じけんが起こる。
いつもは豆太の声でじさまが起きるのだが、この夜はじさまの「うなり声」で豆太が目をさました。そして、「夢中でじさまにしがみつこうとしたが、じさまがいない」のだ。
 じさまは、「しんぺえすんな」と言うが、「体を丸めてうなって」いる。「こわくて、びっくらして、豆太はじさまにとびついた。」、「けれども、じさまは、ころりとたたみにころげる」のである。
 その夜の事件は、二人にとっては必然であった寄り添うことが破れたこと、そしてその恐怖から始まるのである。

 

2014年8月9日土曜日

「モチモチの木」を読む④

豆太の《恐怖》④

 誰もが「五つ」の頃には、夜の闇に恐怖を感じることがあったに違いない。だが、語り手は、それでも豆太が特別に《おくびょう》なのだと言いたいかのように、その「みっともない」姿を繰り返し嘆いてみせる。
 
 ・もう五つにもなったんだから、夜中に一人でせっちんくらいに行けたっていい。
 ・夜中には、じさまについてってもらわないと、一人じゃしょうべんもできないのだ。
 ・じさまは、かならずそうしてくれるんだ。五つにもなって「しい」なんて、
  みっともいやなあ。

 豆太は、一人でせっちんに行けない。じさまは、「ぐっすりねむっている真夜中に」起こされ、ついていかなければならないのである。語り手の嘆きは、こうしたじさまを気の毒に思ってのことかもしれない。
 確かに自分にも夜中トイレに行くことは怖かった記憶はある。まして、豆太の生きる時代や場所の深い闇を考えると、その恐怖も大きなものだったと思える。しかし、いつもいつもじさまを起こしてついていってもらうとは…、そんな気もしてくる。

 語り手が嘆くわけは。もう一つある。

   豆太のおとうだって、くまと組みうちして、頭をぶっさかれて死んだほどのきも助だったし、じさまだって六十四の今、まだ青じしをおっかけて、きもをひやすような岩から岩へのとびうつりだって、みごとにやってのけるのだ。
   それなのに、どうして豆太だけが、こんなにおくびょうなのか――。

 語り手は、猟師としてのおとうやじさまを賞賛する。おとうの「きも助」(教科書注「きもったまの太い、勇気のある男」」)ぶりやじさま「みごと」さを語り、それなのに、子であり孫である豆太が…というわけである。

 こうして語り手が嘆く豆太の「おくびょう」の特別さには、よくよく注意しなければならない。
 「くまと組みうち」したおとうの死にざまは、確かに「きも助」のものだと言える。だが、それは、豆太にとって「きも助」だと賞賛や誇りの気持ちだけで受け止められることだろうか。自分の父がくまに「頭をぶっかされて死ん」でしまう。その残酷さ、そして喪失は、むしろ恐怖ではないだろうか。豆太は、まだ「五つ」なのである。
 作品に言及されていない母もまた失われた存在である。「五つ」の子には、父や母といった自分を守ってくれる存在は不可欠である。そうした存在の父や母の喪失は、まだ「五つ」の豆太にとって、どれほど過酷あり、恐怖であったことだろう。
 じさまだけが、「五つ」の豆太にとって頼れる存在だった。そのじさまの猟師としての「みごと」ささえ、豆太にとっては、心配の種となっただろう。おとうの「きも助」ぶりが死につながった失敗を知っているのだ。じさまの失敗を恐れる気持ちももっていたはずである。じさまは、もう「六十四」なのだ。

 真夜中、峠からふもとまで半道(2㎞弱)もある、霜の降りた道をはだしで駆け下りさせた、「大好きなじさまの死んでしまう」ことの豆太の恐怖は、まだ「五つ」にしてすでに父母をなくしてしまった豆太の「おくびょう」の底にある恐怖にまっすぐ結びつくものであった。

2014年8月8日金曜日

「モチモチの木」を読む③

豆太の《恐怖》①

中心人物・豆太が《おくびょう》から《勇気》へと最も大きく変容すると思われる場面においても、やはり豆太はこわがっていた。「大好きなじさまが死んでしまう」ことへの恐怖心があったのだ。
その恐怖は、豆太にとって最大のものであり、読み手に《おくびょうなやつ=豆太》の恐怖の本質を明かす鍵となるものである。その気づきは、作品の設定を読み直すことを促す。

【時】
物語全体の【時】の設定は、明示されていないが「昔」としておいていいだろう。「今」のように電気などない時代だ。
 出来事が起きるのは、「しもつき二十日」。その日の昼(夜以前)、夜、次の朝、その晩と出来事は展開される。
「夜」と「昼」の対比も重要であろう。

【場】
「とうげのりょうし小屋」に豆太とじさまは暮らしている。
「しもつき二十日」の夜、豆太は峠をふもとまで下り戻ってくる。

【人物】
・中心人物=豆太(5歳)
・重要人物=じさま(64歳、猟師)
・その他=医者様
・言及される人物として重要なのは「おとう」(「きも助」、すでに死んでいる)
・そして重要な事物として「モチモチの木」(豆太の恐怖の対象。勇気の証ともなる。)

【状況】
 ・豆太、じさまとの二人暮らし。(おとうは死んでいる。母については言及なし。)
 ・「小屋」「一枚しかないふとん」→貧しい。

 
 「おくびょうなやつ」豆太が恐怖するのは、夜の「モチモチの木」である。その様子は、次のように語られる。

 (せっちんは表にあるし、)表には大きなモチモチの木がつっ立って、空いっぱいのかみの毛をバサバサとふるって、両手を「わあっ!」と上げる…
 

 (夜になると、豆太は、もうだめなんだ。)木がおこって、両手で、「お化けえ!」って、上からおどかすんだ。

 
 これが豆太の恐怖する「モチモチの木」の姿である。
「モチモチの木」が豆太に恐怖心を与えるのではなく、豆太の恐怖心が「モチモチの木」を擬人化(擬化け物化?)してしまうのだ。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」である。と大人なら言うだろう。「全く、豆太ほどおくびょうなやつはいない」と語るその見方は、そうしたものだろう。語り手はそうした見方を促しつつ、「もう五つにもなったんだから」と嘆いてみせる。
 だが、「もう五つ」と言われ、「そうだよな」とうなずいていいのだろうか。「まだ五つ」なのではないのか。
 場所は、夜中の峠である。電気も灯りもない昔である。また、猟を営むものが住む峠なのである。人の気配などないだろう。しかも小屋という内から外へ出ていかなければならない。闇は深い。そうした闇の中で、五つの子が「モチモチの木」のおどされて不思議はない。
 語り手は、巧妙に豆太の《おくびょう》さを語っている。「もう五つにもなって」と嘆いてみせ、ことさら強調することによって、「まだ五つ」であることを隠しながらも同時に気づきを促すのである。わざとらしい嘆きと大人らしい見方にうかうかと同調しなければ、「本当は自分だって五つの頃は、夜中に目覚めてトイレに行くことが怖かった」、そうした気づきが促されるはずなのである。

(斎藤隆介の作品は民話の体裁をとった創作童話だというが、その語り口は実に巧妙な仕掛けがあるようだ。これについても後日書けたらと思う。)

〈つづく〉

2014年8月7日木曜日

「モチモチの木」を読む②


作品の冒頭、「全く、豆太ほどおくびょうなやつはいない。」といきなり語られる。さっそく《豆太=おくびょう》と印象づけられる。
「もう五つになった」のに、「夜中には、じさまについてってもらわないと、一人じゃしょうべんもできない」という。表のせっちんに行くと、「モチモチの木」が「わあっ!」とおどすらしい。
 
そんなおくびょうな豆太が、はらいたで苦しむじさまのため、真夜中、医者様を呼びに峠の坂道を駆け下りる。おくびょうな豆太が勇気を出す。大きな変化である。
 その姿は、次のように語られている。


外はすごい星で、月も出ていた。とうげの下りの坂道は一面の真っ白いしもで、雪みたいだった。しもが足にかみついた。足からは血が出た。豆太はなきなき走った。いたくて、寒くて、こわかったからなあ。
 でも、大すきなじさまの死んじまうほうが、もっとこわかったから、なきなきふもとの医者様へ走った。
 

これは、確かに《勇気》ある姿かもしれない。しかし、豆太が《恐怖》を感じなくなったのではない。
 いつも夜に「モチモチの木」が「空いっぱいのかみの毛をバサバサとふるって」おどすように、この夜も「しもが足にかみついた」のである。痛さも寒さも恐怖心とないまぜになっている。
 そして、もっとこわいものがあった。「大好きなじさまが死んじまう」ことだ。
 ここで豆太を突き動かしたのは、いつもと同じ、いやそれ以上の恐怖だった。《勇気》という言葉によって、豆太の《恐怖》を見逃してはいけない。

2014年8月6日水曜日

「モチモチの木」を読む①

 8月4日から「全国国語授業研究会」、「基幹学力研究会全国大会」に参加しています。
 そこで、「モチモチの木」の授業を見ました。そして、二瓶先生の『お母さんと一緒の読解力教室』という本を買い読みました。そこで、触発され、考えてみようと思ったのが、「モチモチの木」の読みのことでした。
 とりあえず、書いてみたところまで。
 
 
 
「モチモチの木」のあらすじは、こうだ。

 おくびょうな豆太は、夜、表にあるせっちんに一人ではいけない。大きなモチモチの木が怖いのである。寝ているじさまを起こし、ついていってもらわなければならない。
 しもつきの二十日の夜、モチモチの木にひがともる。勇気のある一人の子供だけが見ることができるのだ、とじさまは豆太に話す。
 その夜、じさまがはらいたで苦しむ。豆太は、一人で夜道をかけ、お医者様を呼びに行く。その帰り、モチモチの木にひがともるのを豆太は見る。
 でも、じさまが元気になったそのばんから、豆太はしょうべんにじさまを起こす。
 

 何かが大きく変わるのは、「しもつき二十日の夜」である。その場面で、何が、どのように、どうして変わるのか。
 何が変わったのか。それは、もちろん豆太である。
 どのように変わったのか。おくびょうな子供から勇気のある子供へと変わる。
 どうして変わったのか。じさまを助けたかったからである。
 と、読む。「おくびょう」と「勇気」という枠組みでつい読んでしまう。
 だが、物語の終わり、豆太は、じさまが元気になると、やっぱりしょんべんにじさまを起こす。
 にやりと笑える最後である。
 その笑いは、さらに作品の読みへと誘う。「おくびょう」から「勇気」へという常識的な読みを笑っているように思えるからだ。


 物語を何事かの変容ととらえ、その変容のから物語の主題をとらえる方法がある。二瓶先生の「クライマックス読解法」もそのひとつだろう。
 方法は、どのような作品にも通用できる一般性を求める。だが、作品は、その作品自身を読めと誘う。もっと言葉を読めと誘う。
 二瓶先生の方法の「きも」は、そのような作品の誘いに敏感になることではないか、と思う。二瓶先生は、「見えないものが見えるようする」のが授業であると言う。「見えないものが見えるようになる」ためには、そうした敏感さが必要なのだと思う。
 だが、方法によって、見えた気になり、読んだ気になってしまいがちである。そして、作品の言葉から目は離れていく。そして、方法に守られた自分の見方を自分の言葉で語ってしまう。
 二瓶先生の方法は、作品の言葉から自分の言葉を引き出す武器である。だが、それは自分の見方、自分の読みを守り固定するものではない。作品の言葉をよりよく見るための武器であり、それによって自分の見方、自分の読みを破壊し更新するための武器なのである。
 作品が自分に語りかけてくる、と二瓶先生は言う。作品が語りかけてくることに敏感でなければならない。
 

「モチモチの木」の最後に誘われた笑いは、見えていない自分の読みに気づかせるものだった。作品はもっと語りたがっているのだ。
 目を凝らすと、作品の言葉が立ち上がり、立ち上がった言葉たちが手を取り合う。耳を澄ますと、作品の言葉は声を発し、言葉たちの声は響き合う、はずなのだ。

2014年3月7日金曜日

二瓶弘行先生の授業を見る⑤

【子供たちの読みを深める③】
 「何が、どのように、なぜ変わったのか」という3つの問いについての子供たちの読みを深めるため、二瓶先生は、2つの働きかけを行った。さらに3つ目の働きかけを行う。

《働きかけ①》
 「何が変わったのか」という問いに対して子供たちは、「王子の心」と考えた。二瓶先生は、前ばなしと後ばなしに着目させることによって、「都の全体」が変わったことをとらえさせた。
 

《働きかけ②》
 「どのように変わったのか」という問いに対する「騒がしさから静けさへ」という子供たちの表面的で固定的な読みを、「平和」の一語に着目させることによって、深め多様なものへと導いた。

《働きかけ③》
 さらに行われた3つ目の働きかけは、「なぜ変わったのか」という問いに対する子供たちの読みを深めようとするものであった。
 子供たちは、「騒がしさから静けさへ」という変化の原因を「ひとりのおくさん」の思いつきが広がったことととらえていた。
 先生は、都の誰一人気づかなかった自然の音にただ一人気づいた王子にあらためて着目させた。王子が気づいたからこそ、人々は自然の音を聞くことができたのだと。そして、なぜ王子だけが聞くことができたのかを問題とし、前ばなしにおける王子の設定を振り返らせ、「まだ六つにもなっていない」ということに着目させた。先生は、大人が失ってしまった王子の「純真」や「無垢」といったものをとらえさせようとした。そうした読みを示唆された子供たちの反応は、鈍かった。
 子供たちは、物語の筋、つまり記述された出来事のつながりから「なぜ」の答えを考えた。それは、記述された通りの内容を正しくとらえた読みであるが表層的な読みと言える。それに対して、二瓶先生がここで示唆した読みは、作品の言葉から象徴的、深層的な意味を探るものである。
 第3の働きかけに対して子供たちの反応は鈍かった。だが、二瓶先生が指導を見誤ったのではない。そうした子供たちの読みの限界も十分わかったうえでの働きかけだったのだと思う。
 先生は、この作品が5年生の教科書教材であることを知らせ、3年生の子供たちが精一杯読んだことを認めた。そして、「君たちは、王子の持つ純真をまだ持っている。その意味を知るのは、先のことだろう。その時にまたこの物語を読んで考えてほしい。」、そうしたメッセージを伝えた。
 作品の意味は客観的に固定したものであり、それについての教師の読みが子供たちに到達させるべき正解である、二瓶先生はもちろんそうした立場をとらない。作品の意味は読者一人ひとりに開かれているという読者論の立場をとる。そして、作品の力、子供の成長の力を信じる教師として、今回の授業では、子供の成長に応じて作品の意味もまた成長する、ということを子供たちに伝えようとしたのだ、と思う。
 「世界でいちばんやかましい音」は、3年生でも楽しく読むことのできる筋の展開を持った作品である。教材としてもとてもわかりやすい典型的な構造をもっている。だが、そうしたわかりやすい表情の裏に、皮肉や象徴が埋め込まれ、奥深い意味を持っている。そうした作品は、一読で消費してしまうのではなく、自らの成長に応じて再読してみるといいのだ。
 作品をいかに短時間で手軽に読み取るか、といった読み方に関心が集まっている。先生にそうした読み方指導への批判がなかったとは言えない。

2014年3月1日土曜日

二瓶弘行先生の授業を見る④

【子供たちの読みを深める②】
 二瓶先生は、前ばなしから後ばなしへと町の人々の「自慢」が変化したことに目を向けさせました。前ばなしでは、人々が「世界でいちばんやかましいこと」を自慢していた。しかし、後ばなしでは、「世界でいちばん静かで平和だということ」を自慢している。「さわがしさ」から「静けさ」への変化は、子供たちもしっかりとらえています。
 
 
 先生が問題としたのは、後ばなしの「平和」の一語でした。 『物語の授業づくり入門編』にある次のような言葉で、子供たちの読みを深めようとしたのです。

 「前ばなし」では平和の反対で戦争をしていたのか? 戦争をしていたわけではないよね? となると、なんで「後ばなし」で平和を自慢するんだろう。平和ってなんだ?

 子供たちは、せいいっぱい考え、次のようなことが発表されました。

〇戦争の時はやかましい音がする。やかましかった町は戦争みたいだ。
〇平和は静けさのたとえ。
〇うるさいとけんかになる。だから、うるささは平和ではないイメージ。
〇クライマックス場面で王子が初めて小鳥の声を聞き自然の声を聞いた。
 それを町の人々も聞き、落ち着きを知った。
〇戦争ではないが、外国への使いが兵隊や奴隷のように見える。
 そうした使いがなくなった。
〇うるさいことが本当のしあわせなのか。
 静けさを知るまでわからなかった。
〇王子は落ち着いた当たり前の生活を知らなかった。
〇新しいことを知ることが平和だ。
〇平和とは新しい時代を築くことだ。

 
 子供たちは、前ばなしにおける町の状態を「戦争のような」状態ととらえたようです。このとらえ方は、作品の言葉をさらに深くとらえていく視点となりうると思います。「うるさいとけんかになる」という考えは、3年生らしい素朴なものですが、さわがしさの奥にある人と人との競争や対立の関係についての認識へと深めうるものだと思います。例えば、さわがしさの一例としておまわりさんのけたたましい笛の音が出てきますが、それはそのような状況が頻繁にあったことを示します。そうした状況を想像することで、さわがしさの背景にある人々の様子や状態を考えることもできるでしょう。
 また、使いの様子に兵隊や奴隷を連想したことは、王様の権力的な姿の再検討へとつなげていけると思います。王子のため「たいへんやさしい方」としての振る舞いが強権の行使となっていることに気づかせ、王様の内面に迫ることもできるでしょう。
 このように、子供たちの読みから、読み深めの視点を得ることができ、その可能性を感じることができました。
 さらに、異常な状態でも内側にいるとその異常さに気づかないこと、当たり前のことや幸せなこととは知らなければそれと気づかないこと、こうしたことへの気づきは、二瓶学級の子供たちの読みの独創的なところだと思いました。 
 
 

2014年2月18日火曜日

二瓶弘行先生の授業を見る③

【前ばなし場面における大もととなる設定の確認】
 本時の授業で特に確認されたのは、「人物(状況)」に関する内容でした。
 ・ギャオギャオ王子(六才にもなっていない。)
 ・都の人々
 このおさえがその後の展開の伏線になります。

【三つの問いへの答え】
 次に三つの問いへの答えが確認されます。
 ・何が変わったのか?
  王子の心
 ・どのように変わったのか?
  やかましい心→しずかな心
  やかましい音が好き→しずかな自然の音が好き
  おちつきのない心→おちついた心
 ・どうして変わったのか?
  クライマックス場面の前の5の場面で、
  一人のおくさんが世界でいちばんやかましい音を聞いてみたいと考え、
  声を出さないことにした。それがだんだんみんなに伝わったから。

【子供たちの読みを深める①】
 ここまでは、二瓶学級の子供たちの「いま読めている読み」です。
 二瓶先生は、『物語授業づくり入門編』で次のように書いています。
 「我々教師がすべきことは、子供の段階を見つつ、子どもの読みを大切にすること。子どもの『いま読めている読み」をさらに深めること。見えなかったものを見せることで、読みを広げてやること。・・・・・・それが子どもの読みを大切にするということです。」
 「見えなかったものを見せることで、読みを深め広げる」ために二瓶先生がまず子供たちに仕掛けたのは、「前ばなしと後ばなしとを対応させること」でした。
 これは、物語における変化を読み取るための方法です。この方法を子供たちは、「かさこじぞう」の読みで学習しています。そのことを思い出させ、それをここであらためて意識させ使わせたのです。
 学んだ用語や方法がすぐに「自力読み」の力となるわけではありません。用語や方法を意識し、実際に使わせ、その有効性を納得させていくことの繰り返しによって、身に付き、自ら使える武器になるのだ、 と思いました。そのためには、そうしたことが可能になる教材を用意し、見通しを持って学習を組織していかなければなりません。指導の系統性を考えるということがどういうことか少しわかったような気がしました。
 「前ばなし」と「後ばなし」では、大きく変わった都の様子が書かれています。両者を対応させることによって、「何が変わったのか?」という問いへの答えが「王子の心」だけではなく「都全体」である、という読みへ広がりました。
 都全体が変化したことは、子供たちにとっても明らかなことでした。
 では、「どのように変わったのか」、やかましい町から静かな町へ、こうした変化も明らかなことでした。しかし、このような大づかみな読みでは、「王子の心」の変化と内容的に変わるものではありません。
 二瓶先生は、文章の一つひとつの言葉に目を向けさせました。作品自体が「前ばなし」と「後ばなし」とで対となる表現をしているのです。そのことを先生は、『物語の「自力読み」を獲得させよ』でも取り上げ、対応表を示しています。
 時間があれば、ここで「詳細な読解」をさせてもいいところでしょう。一つひとつの言葉の表面的な意味からさらに解釈を深めていくと、「作品の心」へつながる意味が豊かに取り出せる、そうした作品なのです。先生は、著書の中で、「話す」という言葉、「ようこそ」という言葉などにさらりと触れています。これらの言葉は、先生自身の「作品の心」につながっています。
 今回の授業では、対応する言葉のおさえはしましたが、一つひとつのこまやかな解釈までは踏み込みませんでした。 次の仕掛けとなる一語へと向かいました。

2014年2月14日金曜日

二瓶弘行先生の授業を見る②

◆「世界でいちばんやかましい音」の授業

 【本時までの子供たちの読み】
  本時以前に、一人の子供がまとめた『物語「世界でいちばんやかましい音」のしくみ」がコピーされたプリントが資料として配布されました。(『「物語の授業づくり入門編」p66~67に載っている2年生のものと比べると子供たちの歩みがわかるようです。)
  そこでは、この作品の場面分け、あらすじ、基本4場面、前ばなし場面の大もととなる設定、大きな三つの問いの答え、そして作品の心がおさえられ、書かれている。  プリントされた子は、「大きな三つの問い」の答えを次のように書いている。
   ①何が変わったのか
    王子様の気持ち
   ②どのように変わったのか
   やかましい(とげとげしい)心→しずかな心
   ③どうして変わったのか
   5場面のおくさんがだまっていようと考え、
   世界中の人にその考えが伝わったから。
   そして、「作品の心」を次のように書いている。
   生きていれば、思い通りにならないこともある。
  でも、それをどう生かすかによって良い方向に進むこともある。
   これらは、この子たちにこれまで二瓶先生が獲得させてきた自力読みの力を示すものでしょう。  こうした読みの上で本時の授業が展開されたのでした。

 【前時までの学習の確認】
  授業のはじまりで、二瓶先生は、前時までにおさえていた基本4場面などを確認しました。
  物語のしくみとしての「前ばなし」「出来事の展開場面」「クライマックス場面」「後ばなし場面」、これらの意味を確認し、この作品の場面と対応させました。
  上の読みの観点として用語の意味の確認は、発表させるだけでなく、以前に書かせたものを読み直させたりペアで言わせたり、かなりしつこくやっていました。
  子供たちは、すでにこれらの観点を使って自力で読みをまとめています。それを考えると、この時間の確認はそれほどきっちりとやらなくてもいいような気もします。
  これらの用語は、二瓶先生が吟味した意味を持つものです。その意味を理解し、しっかりと身に付けることが二瓶先生の考える自力読みの土台になります。
  用語の意味の理解は、ただ単に言葉を暗記することではありません。それは抽象的な言葉ですが、実際に作品を読むときに具体的に機能する言葉でなければなりません。子供たちが用語によって作品へ具体的な働きかけを行った上で、その意味を再確認することが本当に理解し、身に付けることになるのでしょう。
 また、このように子供たちのためというだけでなく、授業を参観する私たちに用語を理解させるためだったのではないか、とも思われます。(むしろその方が大きかったかもしれません。)
  物語のしくみを確認し、そうすることがなんのためなのかも確認していました。
  何が、どのように、そしてどうして変わったのか、という三つの問いに答え、作品の心を考えるためであることを確認したのです。物語のしくみ、それを確認するだけなら、それはただのゲームみたいなものだとも子供たちに話していました。
  二瓶先生は、それぞれの読みの観点・用語による文章全体の読みを「三つの問い」に焦点化させます。そして、「三つの問い」の答えによって読みを方向づけた上で、「文章の詳細な読解」を向かわせ、答えを再検討させます。このような方向づけられた文章に即した読みを土台に、目標(ゴール)である「作品の心」を深めさせるのです。 ここに、二瓶先生の物語の読みの授業論の肝があると思います。

2014年2月13日木曜日

二瓶弘行先生の授業を見る①

 今日、初等教育研修会で二瓶先生の授業を参観してきました。

◆授業前の教室で  
 左近先生と授業開始の1時間以上前から二瓶学級の教室に入りました。すでに20名以上の参観者がいましたが、子供たちはまだいません。
  黒板の上の壁から廊下側の壁までずらりと並んだ二瓶学級の学習用語の書かれたカードを眺めます。初めて二瓶先生の授業を見たのは、十五年ほども前でしょうか。それ以前から使われていたらしいカードもあり、真新しいカードもあります。これらは、二瓶先生の国語教室の歴史年表です。
  左近先生と「親分段落、子分段落なんて前にあったよね。」と、今はなくなってしまったカードのことを懐かしんだり、「美写、速写なんてあるよ。」と初めて目にしたカードについて話したりしました。  「美写」「速写」、これにはなんだか妙に感心してしまったのです。二瓶学級の子供たちは、国語の基礎体力が実によく鍛えられています。こうした二瓶先生独自の学習用語からは、そうした鍛錬の一端が伺えるような気がします。
  今日の授業で取り上げられる文学作品の仕組みに関する用語は、新しく書き直されていました。これらは、二瓶先生の文学作品の読みの指導法の中核に位置する用語で、長年使用され、検討され、改訂されてきたものです。子供たちの目に入る教室前面の右端にさりげなく掲示されていました。

 ◆子供たちの語りを聞く
  授業開始の20分ほど前、子供たちが教室に入ってきました。そして、授業開始まで詩の語りを披露してくれました。 私は、十数年前二瓶先生が本格的に語りを授業の柱として取り入れた頃から、その時々の子供たちの語りを聞いてきました。今日、一人目の語りを聞いた時に、今までの子供たちとは違った何かを感じました。そして、二人目、そして三人目と語りを聞くうちに、この学級の子供たちが1年生から3年生までに作り上げてきた集団的な個性とでもいうようなものを感じました。強弱、高低の幅が広く、独特なリズムで、まるで歌うように語るのです。それは、二瓶先生が鍛えようとしてきた基礎基本の上に、子供たち自身が互いに影響し合いながら作り上げてきたもののように思われました。
  授業後の話し合いの中で、参観者からこれに触れる質問がありました。語りながら子供たちが体を揺らしていたことに関する質問でした。
  二瓶先生の話では、そうした身体的な動作は言語活動としての語りにとって不純な要素だと考えられているようでした。しかし、強くは抑制しなかったようです。子供たちの発音は明瞭でしたし、子供自身が強く出そうと意識して出した声はとてもよく響いていました。こうした基礎基本はしっかりとできているのです。その上で子供たちは独特の表現をしたがっていたわけです。その独特さは、たぶん内容理解に基づく表現としてのものではなく、「気持ちのよさ」なのではないか、と思いました。二瓶先生自身、子供たちに「絵に描くように、そして気持ちよく声を出す」ことを求めていたようです。
  子供たちの独特の語りを聞きながら、古くから詩歌は今のように音読されるのではなく、歌うように詠まれていたことを連想しました。
  この日、子供たちはみんなで一斉に「心に太陽をもて」を語りましたが、全員が同じリズムで同調し共鳴し語る姿は、実に気持ちよさそうでした。この子たちが高学年になり、内面的な表現の課題に出会う時がきたら、どんな語りをするのだろうか、とふと考えました。
  授業中気がついたことですが、付け加えておきます。
  他の子が音読する時、子供たちは自分の手元の文章を見ながら聞いていました。そして、語りや発表の時には、語り手・発表者を見て聞いていました。  こうした姿は、二瓶先生が指導されてのことでしょう。音読は読む活動であり、語る・聞くは伝え合う活動だというおさえと区別があるのだと思いました。こうした言語活動のきっちりとしたおさえが学習活動に具体化されていくことに国語教室としてのあり方について示唆を受けました。 ※うまく改行が表示されません。とりあえず。

2014年2月2日日曜日

「ヒロシマのうた」場面分け5

前回は、第2の時「戦争が終わって七年目」の部分の場面分けを行った。
「わたし」と「ミ子(ヒロ子)・母」との再会後の部分を場面8としてたが、修正する。
次のように、再会後の部分を場面8と場面9の二つに分ける。

場面8
始 「そのときの、何かヒロ子ちゃんの暗いかげが、いつまでもわたしは気になりました。」
終 「わたしは、できれば、いなかの家を出て、ヒロ子ちゃんと二人で暮らすことができないものだろうかと思い、そのことを書き送りました。」
場面9
始 「すると、その年の暮れ、ヒロ子ちゃん親子は、広島を出て、小さな洋裁学校に住みこみで働けるようになったという手紙が来ました。」
終 「わたしもいつかヒロ子ちゃんのことを、忘れていくようでした。」

ここでは、全体の場面分けが終わった後に、場面ごとの一文要約を載せようと思うのだが、実際の作業では、場面分けとともに一文要約も行っている。
再会後をひとまとまりにして要約しようしたが、うまくいかなかったのである。

場面8と場面9の間には、「その年の暮れ」という時の変化がある。「わたし」の回想において、「その年の暮れ」が「ヒロ子ちゃん」をめぐる記憶のひとつのターニングポイントになっている。
再会後、「わたし」は「ヒロ子ちゃんの暗いかげ」が気になる。そして、「ヒロ子ちゃん」の置かれた辛い状況を知る。「その年の暮れ」、二人の状況に大きな変化があり、その後「わたし」は「ヒロ子ちゃん」のことを忘れていく。「わたし」にとって、「ヒロ子ちゃん」は「気になる」状態から「忘れていくよう」な状態に変化していく。

場面を一文に要約しようとすると、「時」「場」「人物」とともに出来事などの内容の検討が必要になる。
 
場面は、形式的なものではなく、内容的なまとまりであろう。
「時」「場」「人物」は、重要な指標だが、出来事などの内容的なまとまりを検討することも場面分けでは、必要になってくる。「いつ」「どこで」「だれが」-「どうした・どうなった」、基本的に場面はこのような形で要約されると思う。

一文要約がうまくできるかどうかで分け方の妥当性がわかるのかもしれない。

2014年1月28日火曜日

「ヒロシマのうた」場面分け4

第2の時、戦争が終わって7年目の部分を場面分けしてみる。

この部分は、次の3つの内容を持つ。
①ラジオのたずね人をきっかけに、赤ちゃんを預けた家族と連絡をとり、7年間の消息を知る。
②広島で1年生になったミ子(ヒロ子)と引き取ったお母さんと会う。
③その後の二人の消息を知る。

①→②→③は、出来事の時間的な順序であるが、①は過去に関する内容を含んでいる。
①では、まずわたしとお母さんが連絡を取り合うまでの経緯が記述され、その後にお母さんの手紙が引用される。そして、、広島で会う約束をするまでのことが記述される。
そして、お母さんの手紙の引用で、原爆投下直後赤ちゃんを預けてからの過去7年間の出来事でが明かされるのである。

場面分けに際しては、②、③についてはそれぞれ一つの場面とするが、①については、手紙の引用を一つの場面として、その前と後との3つに分けたい。

場面4(①の1)
始 「それから、長い年月がたちました。」
終 「それには、意外なことが書いてありました。」
場面5(①の2)
始 「――こんなに早く、あなた様からご返事がいただけるとは夢にも考えていませんでした。」
終 「(略)たずね人を出したわけでございます・・・・・・。」

場面6(①の3)
始 「『ありがとうございます。』」
終 「そういう返事を出しました。」
場面7(②)
始 「その年の夏、ちょうどあの日のように朝からぎらぎら暑い日、広島の駅で、(略)」
終 「『おおきに(ありがとう)。』と言ったきりでした。」
場面8(③)
始 「そのときの、何かヒロ子ちゃんの暗いかげが、いつまでもわたしは気になりました。」
終 「わたしもいつかヒロ子ちゃんのことを、忘れていくようでした。」

2014年1月22日水曜日

「ヒロシマのうた」場面分け3


 第1の時、原爆投下直後の部分には、3つの主たる内容がある、と考えた。そして、それぞれに対応させて文章を3つに区切り、場面と考える。

場面1 原爆投下直後の広島の惨状
 始 「わたしはとのとき、水兵だったのです。」
 終 「わたしたちは、練兵場の外れにある林の中にテントを張って、交代にねることになりました。」
場面2 わたしが赤ちゃんとお母さんに関わる
 始 「その夜、ふとわたしは赤んぼうの声を聞きました。」
 終 「とても人のことなど頭にうかばないし、見えないといった様子です。」
場面3 わたしが赤ちゃんを夫婦に託す
 始 「駅の近くまで行ったとき、やっとリアカーに荷物を積んでにげていく二人の人に会いました。」
 終 「戦争ということが、こんな悲しいものであることを、そのとき初めて知りました。」

さらに細分化することもできると思われる。
例えば、書き出しの3文を一つの場面として「前ばなし」部分と考える。そうすると、作品の最後の3文を「後ばなし」部分としてうまく対応させることができるように思える。
(広島に入って行く「わたし」⇔広島から離れていく「わたし」)
また、作品で示されている≪時≫や≪場≫に応じて、場面を一層細分化できるのかもしれない。
だが、その後の展開にとって、ここで重要なのは、先に見た3つの内容的なまとまりであり、「わたし―赤ちゃん・お母さん」、そして「わたし―赤ちゃん―夫婦」という≪人物≫の関係の設定である、と考える。